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2021年08月19日08:39

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日本一のつわもの真田幸村

豊臣家とともに戦死した武将・真田幸村は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将です。少年・青年期を豊臣秀吉のもとで過ごしました。関ヶ原の戦いでは西軍として戦った。徳川家康が大阪冬の陣・夏の陣をしかけると、豊臣側について戦い、戦死しました。

真田幸村は、武田信玄の配下の武将・真田昌幸の二男として生まれました。名は正式には信繁といいます。その後父が秀吉の配下に入り、幸村は十代二十代を大阪城の秀吉のもとで暮らしました。勇敢でかしこい幸村は、秀吉に可愛がられたといいます。

関ヶ原の戦いでは、父とともに豊臣側について戦い、徳川秀忠の軍を足止めしましたが、西軍が敗れたため、九度山(和歌山県のとてもよいところでした)に閉じこめられました。1614年、徳川家康が豊臣家を攻撃するとの情報を得た幸村は、山をぬけ出し、3500の軍をまとめて大阪城へかけつけました。

幸村は、大阪城わきに「真田丸」とよばれた出城を築き、徳川軍をけちらす大活躍を見せました(大阪冬の陣)。いったん和睦した家康は、幸村に、信濃の国(今の長野県)をあたえるから自分の配下に入るよう求めました。しかし幸村はこれを直ちにはねつけました。

翌年の大阪の陣でも、幸村は凄まじい戦いぶりで豊臣軍をもりたてました。家康の本陣に攻め込み、一時家康は自殺を考えたといわれます。しかし、幕府の大軍の前に、あと一歩とどきませんでした。ついに幸村は戦死し、翌日、豊臣家は滅びました。

映画、真田十勇士を鑑賞したのですが、意外と歴史に忠実に作られていました。エンディングで字幕が出た後の豊臣秀頼の最後がなるほどと感心してしまいました。今から400年少し前に、徳川家康に最後まで逆らって切腹寸前まで追い込んだが、散って行った真田幸村ですが、映画では、真田幸村は腰抜けだったということで描かれていました。

家康は巧妙に大阪城の堀を埋める算段を整え、翌1615年大阪夏の陣に臨みました。そこでも幸村は果敢に戦い、家康の本人にあと一歩と迫ったものの、無念のうちに戦死を遂げた。その壮絶な戦いぶりは、「真田は日本一のつわもの」と後世まで語り継がれているのです。

真田幸村といえば、真田十勇士を思い浮かべる方も多いことでしょう。そのもととなった「真田三代記」には、霧隠才蔵、三好兄弟、穴山子介、由利鎌之助、筧十蔵、根津甚八、海野六郎、望月六郎の9人は登場するのですが、猿飛佐助は出てこないのです。

真田幸村は若い女性の間で大人気となっています。戦国を扱ったゲームや大河ドラマ・BASARAなどのアニメの影響でしょう。各地の戦国会館では若い女性のびっくりするほど知識に驚いてしまいます。戦国武将人気は全国に広がり、毎年の夏に真田幸村ゆかりの地である長野県上田市へ行くと、女性客の姿が目立ちます。とても素晴らしいところです。

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