mixiユーザー(id:3910831)

2021年07月14日21:19

50 view

不幸を背負っている人へ


世の中には、
不幸を背負って生きている方がいます。
その方は、なぜ不幸なのでしょうか?

「幸せだ。幸せだ。」と言っていても、
見た目に全身に不幸を背負っていて、
ちっとも幸せそうに思えない人も居たりして、
この人は、幸せだと、自分に言い聞かせながら、
納得しようとしているのかな?
なんて思うこともあります。

だから、
「幸せだ!」と言っていれば
幸せで居られる訳ではない。
と、考えたりもできなくもないですが、、、

まあ、その状態は、
「不幸だ!不幸だ!」と言って、
不幸を引き寄せているよりはマシでしょう。
ですが、
「幸せだ!幸せだ!」と公言しつつも、
様々な怖れに振り回されているように見えたら、
周りからは幸せには見えないのです。

怖れおののきながら、
「幸せだ!」と聞かされても、
怖れに対してのおまじないを
かけようとしているとしか見えません。


表面意識において、
不幸を、自ら選ぶ人はいませんよね。

どんなに沢山の不幸を背負っているか?
と見えるような人であっても、
それは、自分なりに幸せを求めていながら、
その想いや、行動の結果として、
不幸になっているに過ぎません。

そもそも
果敢に、誰かに責められること、
厳しい環境の自ら入っていくことは、
不幸ではありません。

そういうことができる人は、
そういう環境に自ら入っていくことで、
そこに手に入る果実があることを認識しています。
だから、
大方の人が不幸な環境と思っていたとしても、
その人にとっては不幸ではありません。
積極的に果実を得にいく途中でしかありません。



誰かが不幸と思う環境が、
不幸な訳ではありません。
また同時に、
誰かが幸福と思う環境が
幸福を与えてくれるわけでもありません。

誰かと比較して、
自分は不幸だと嘆く人がいますが、
誰かと比較して得られるのは、
幸福ではなく、優越感か、安心感です。

優越感は、
いつか逆転されるかもしれないという
リスクを含みます。
その本人が、潜在的であっても、
そのリスクを最も知っていて、
そのことから、
防衛的に振る舞わなければならなくなります。

安心感は、
その防衛ができている間は
得られるかもしれません。

でもそれは、本当に、
「幸せ」と言えるものですか?

安心感というのは、
怖れがとりあえず収まっている。
という状態に過ぎないんじゃないのかな?
と思います。

安心な状態というのは、
怖れを起こしてくる何事かを回避したり、
怖れを乗り越えて対処する術を
身に付けたことで得られている訳ではありません。

とりあえず、
今は恐れなくて済んでいる。
という状態が「安心」という状態じゃないかと
私は思っています。


不幸というのは、
自分がいらないと思っているのに、
不幸の方から追い討ちをかけるように追いかけてきます。
それが、正に、「不幸」です。

自分の意にそぐわないことを
やらざるを得ないとしたら、
それが、「不幸」です。
その上、そこで事故にでも遭えば、
不幸確定です。

安心感を求めていると、
そこで、次々に現れる
やらなければならないことは、
不幸の種です。

なぜ不幸な目に遭うのか?
と問われた時に、
それはカルマで、過去世で悪事を働いた報い
と考える人もいるかもしれません。

単なる偶然として起きている。
と答える科学信仰している方も
いらっしゃることでしょう。

しかし、私は、
自分の人生は自分で設計し、設定して、
この世界に生まれ出てきていると考えています。

どの考え方が本当なのか?
というのは私にはどうでも良いことです。

過去世の自分の行いの報いとして、
今の人生があるにしても、
偶然にして今の人生を生きているにしても、
それは与えられたものです。

勝手に向こうから、
やるべきこととして、
自分に押し付けてくる人生上の仕事です。

カルマという言葉の原意は仕事です。



私は、このとき、この場を自ら選んで、
今ここに生きていると考えています。

それは、
自分の人生をそのように捉えることが、
自分の人生を幸せにする。
と考えるからです。


起こったことを幸福と感じるか、
不幸と感じるかの最大の要因は、
自分で選んでいるか?
誰か何者かに押し付けられて居るか?
の違いにあります。




自分で選んで行った結果事故に遭ったとしたら、
不運だったとしても、
必ずしも不幸に直結しません。
その方法ではうまく行かないという
学びがそこにあり、
それを糧にすれば、
次は、その次の次は、うまくできるかもしれないのです。

しかし、誰かに強制されて事故に遭った場合には、
それは不運であると同時に不幸でもあります。
そこには、怖れしかなく、
閉じた未来しかありません。

幸せを感じられるようにする基本は、
自分で選んでいる人生を生きているという実感と、
それをすることを、
誰かが期待しているという実感があることです。

自分で選ぶことができないまま、
強制された出来事に振り回されて生きていることが
実は「不幸」を産んでいるのです。


過去世の残虐な行為の後始末で、
今不幸なことになってしているとしても、
その精算が済めば、
幸せな生き方ができるのかもしれません。
としたら、その精算が今世での「使命」かもしれません。
だとしたら、それは、
不幸に苛まれながら生きる道
ではないような気がします。
それは、「幸福」への道のはずです。

実は、
本当のところ、
神様との間での、
過去の精算は、
一瞬で成されてしまいます。

誰かの怨み妬みは、
その誰かが改心するか、
死ぬまで続きますが、

神様との精算は、
その人が姿勢を変え、
向きを替えれば、
一瞬で解消されてしまうものなのですが、

それでも、神様との
「過去の精算」という明確な目標が
描けていたとしたら、
それは、それで、幸せではないか?と
私には、思えます。

おそらく、そこに目が向き
そこに向かって歩み始めた時点で、
神様との過去の精算は終わっています。

どんなことであれ、
誰かにやらされているのと、
自分で積極的に選んでやるのとでは、
何かが起こった時にその捉え方が大きく替わります。

体育の授業で、無理矢理、
高くて飛べそうにない跳び箱に
挑戦させられ怪我をしたら、
それをさせた先生を恨むことでしょう。

しかし、たとえ体育の授業中であったにしても
自分で、あの跳び箱を越えたい!と、
自ら飛び込んでいって怪我しても、
しくじったとは思っていても、
不幸だったとは思わないでしょう。
この次は、どういう工夫をしたら飛び越えられるか?
いろいろ考え、この次は成功させようと考えるでしょう。

そこには、やらされた感はありません。
失敗はただの失敗でしかなく、
学びのチャンスがあるだけです。
それゆえに、不幸感もありません。


不幸感を抱えている人は、
「不幸を背負わされている!」
と思っているはずです。

自ずから積極的に
その不幸な状態を取りに行っている人は、
その状態の中に居る自分を不幸だとは思いません。

イエス・キリストさんは、
磔にあっても不幸ではなかったのです。
一世一代の果実を手にするために必要な手順として、
磔されることを自ら選んでいます。


自分に不幸を背負わせて居る何者かが
たとえ、神様であったにしても、
自分の意に反して、
ムリヤリなにかを背負わされていたら、
不幸です。
それをさせた神様を恨むことになります。

そこには自分で選択した感覚もなければ、
自分に選択の自由が与えられている。
という感覚もないでしょう。


元々が、自由は、与えられる権利ではなく、
自分自身で獲得していくものです。
そこを、勘違いし、間違えている人がほとんどです。

自分で自由を獲得するために
情報を集め、工夫を重ね、練習して
手に入れようとしない限り、
自由は手にできません。



多分、自由を手にしようと思ったら、
最初は初めての体験となることから、
最初の一歩に大きな決断とか、
大きな勇気が必要なのかもしれません。

そして、その勇気がないことで、
誰かを責める不幸なままでいることを選ぶのです。
挑戦することにはリスクが伴うからね。

もしかしたら、一度ぐらいは
勇気を出して挑戦したことはあったかもしれません。
ですが、無闇に挑戦したところで
簡単には自由は手に入りません。


そこで助けになるのは、
その自由を得た人々を見ることです。
自由を得た人々と自分の違いはなんでしょうか?

大きな違いは、
その自由に向かって一歩踏み出したかどうかです。

ただし、「ただ闇雲に一歩踏み出せば良い。」
というものではありません。
そこには必ずリスクが伴います。
自由を手にした人々は、
その「リスクをコントロール」する方法を身につけたからこそ
自由に振る舞えているのです。

自由を手にしたいと思ったら、
まずは、情報を集めることです。
その情報源は、
自由を手にした人々からのもの
である必要があります。

その自由を手にしてない人々からの情報、アドバイスは、
ほぼ間違いなく、役に立ちません。
何しろ、そのアドバイスは、
「それは超えられない!」
ってことが前提になっているのですから、
そのリスクと、恐怖によって、
それに挑戦しようと思い始めた私、私たちに、
二の足を踏むよう仕向けることになります。

それは、多数意見だから正しい。
というものではありません。

私、私たちが手にしたい「自由」が、
ほんの一握りの人しか手にしていない「自由」ならば、
その自由を手にしていない大多数の人に
意見を求めるのは、まったく無駄です。

子供の頃は、
隣の街に行くのもリスクでした。
見知らぬ街に行き、
帰って来れなくなったらどうしよう?
そんな怖れを抱きながら、
行動範囲を広げようとしたことって、
誰にもあるんじゃないですか?

海外旅行しようと思ったら、
パスポートを得るのも、
出国審査、入国審査、飛行機の乗り方、
行った先の国の事情、言葉、
分からないことばかりです。
その状態で突き進むのは、
旅行程度のことであってもリスクが高くなります。

しかし、それらは、情報を得ることで、
あらかじめどんなことが起きるか想定し、
対処法をイメージしておくことで、
切り抜けることができます。

あらゆる自由は、
そのようにして獲得していくのです。

もう一つ、
自転車を乗りこなす。という自由は、
乗り方の手引きというような情報だけでは手に入りません。
バランスを取るという技術を身につける必要があります。

つまり、自由を獲得するためには、
情報を得て、練習する必要があるってことです。

また、「自由」で居られるようにするために、
鍛錬し続けないとならないかもしれません。

歳をとるごとに、
鍛錬することが億劫になり、
億劫になるごとに、体力がなくなって、
「自由に動き回る。」という自由を失っていきます。

つまり、
何かにおいて、
自由を得て自由で居続けるためには、
情報を得て、練習して技術を習得し、
それを維持するための鍛錬の継続が必要になります。


不幸を背負って生きている人は、
その不幸を与える何者かの
言いなりになっていることで
不幸で居続けてます。

そこから逸脱することは、
自分の命に危険が及ぶと思っています。
仲間の誰かが逸脱することも、
自分の現在得ている自由を阻害する。
と信じているかもしれません。

そうやって、
自分に対しても、
周りの誰かに対しても。
手足を縛り合い、自由を手にすることを阻むことで、
安心のため、現状維持を続けようとし、
不幸で居続けることになってます。


そこから抜け出すためには、
「現状の不幸」を認識する必要があります。
そこから抜け出して自由を得たい。
と思わなければ、
その状況に押し流され続けることになります。

その上で、自由を得た人から情報を集め、
作戦を立てます。
そして、自転車を乗りこなすのと同様に、
スキルを身につける必要があるかもしれません。

そこで助けになるのは、
もしかしたら、
「使命感」かもしれません。

なぜ自分が生まれてきたのか?
どんな目的があって、今、自分は生きているのか?
自分がどんな生き方をしている時に、
自分は生き生きできるのか?
自分を生き生きさせるために何が必要なのか?

自分の人生の目的を果たしている時に、
人は生き生きできるはずです。
自分の人生を生きて居ない時に、
人は生きる気力を失っていきます。

その上で、誰かの役に立つことができて居る。
と思えることに、
人生の目的、使命があるはずです。


本当は、
神様は、
私たちが何をしていようとも、
幸せを与えてくれています。

でも、自ら幸せを感じられない人は、
神様の望みを叶える。
という仕事を得ることで、
幸せに生きていくことができるかもしれません。
それが「使命」と言われるものだろうと思います。

神様の望みを叶える仕事をしているのですから、
それが私への神の期待であり、
神の意に沿って居るのだから、
幸せになるはずなのです。

そう、必ず、幸せに過ごせるはずです。
神様と約束した「使命」を果たしているのですから。

そういう考えは、既に
幸せな日々を過ごしている人には不要ですが、
不幸な日々を生きている人には、
役に立つ考えになるでしょう。きっと、


不幸から抜け出すためには、
不幸を与えて居る何者かに抗う必要があります。
その何者かのその圧力から、
自由を得る必要があります。

その目標を定め、
それに向けて情報を集め、挑戦し始めたら、
今までの不幸は単なる不幸ではなくなります。
不幸なはずのその場所は、
自分の旅路のスタート地点、
自分の物語、ゲームの出発点です。

そうやって始まった人生は、
途中で失敗し、
そのゲームをクリアーできなかったとしても、
不幸な人生ではなかったことになります。

そこに、自ら選んだ挑戦がある限り
失敗したとしても、
ワクワクドキドキの幸せな時として、
魂に刻まれることになるのです。

まず、
怖いと思うことについて、
それを乗り越えてしまっている人たちから、
情報、ノウハウの収集を始めてみませんか?

それによって、
きっと怖いと思っていた
手の掛けようもない巨大な壁は、
ゆっくりでも登っていけば乗り越えられる
丘程度の峠に見えるようになるでしょう。
そうやって、丘を越え、峠の先の世界を
歩けるようになり、
自ら自由を積極的に掴みにいくことで、
幸せってやつが、
いつのまにか、手の中にあることを
知ることになるのです。



0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2021年07月>
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031

最近の日記

もっと見る