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2021年07月05日15:51

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人生の使命


前回は、
「人生のテーマ」という題で、
書かせて頂きました。
人生を語る中で、
その対に、思い浮かばれる言葉として
「人生の使命」という言葉が思い浮かびました。

 そこで、
「人生の使命」について
書いてみることにしました。

私が「使命」という言葉で思い浮かぶのは
こんなフレーズ、

「地球を救う使命を帯びて、
 戦う男、燃えるローマーン〜!」

知る人ぞ知る
宇宙戦艦ヤマトの歌詞の一節です。

私は、「使命」に羨望とロマンを抱いています。
私も、使命を帯びるような生き方がしたい。
そう思うのですが、、、、、


たま〜にですけれど、
使命感に燃えた方を見受けます。

仕事で言えば、
与えられた仕事を天職として、
きちんと全うしようとする人は、
使命感を抱いていると言えそうです。

宗教家だったりすると、
自分は神様からこの様にして布教する使命を授かった。
として、熱心に布教活動をされていらっしゃる方がいます。

そういう人は、
やっぱり、それが使命だと思っているんだろうな
と、思います。


今時の、若い人たちは、
世界を冷めた目で見ていて、
「使命」なんていう熱い言葉を聞くと、
煙たくなって、引いてしまうかもしれません。

しかし、私は、使命に燃えることができる人を
羨ましく思います。
私は、使命感を抱ける人は、
それがどんな使命であれ、
冷めて生きている人よりも、
幸せだと思うからです。

そう、私からすると、
「使命感」を持てる人は幸せなのです。

以前書いたことがあると思うんですが、
「夢中と幸せはくっ付いている。」
というのが理由です。

少なからず、
「夢中」である間は、誰でも幸せなのです。
その夢から醒めると、
その夢中な間に成したことに愕然とし、
いきなり不幸のどん底に
突き落とされることはあるかもしれないけれど、
「夢中」である間は、幸せなのです。


そのために、何に夢中になって、
何を使命とするかは、
そうなる前に、
きちんと選ぶことをお勧めしたいとは思いますが、
夢中だったり、
使命感に燃えることができるのは
幸せである証です。


私にとっては、
人生の中で与えられた仕事
と思うようなことはあっても、
「使命」とまでは思えずにいます。
ですから、自分のしていることを
「使命」と思える人が羨ましくなります。

それが、自粛警察だったり、
中国共産党の手先として働くことだったり、
韓国の愛国のための日本バッシングすることだった
にしてもです。


私が前回語った「人生のテーマ」は、
たとえそれが自分で生まれる前に選択してたとしても、
今ここで生きている私には、
それを選択したという意識がありません。

どちらかというと、
勝手に向こうが追いかけてきて、
それをやらなければ不幸にするぞ!
と脅されている感さえします。

しかしながら、「使命」は、
自分がそれを「使命」だと思わない限り、
「使命」にはなりません。

そんなんで、
「私の使命は!〇〇デス。」という人に、
「私の氏名は、ねこってです。」
と、茶化してしまったこともあります。

名は使命を著している。というのもあるし、
「自分を生きる。」というのが使命だ。
 という認識もあってのことです。

これこれが私の「使命」!
と認識するのには、
大きな勇気が必要です。
もし間違っていたとしたら、
とても小っ恥ずかしいですからね。

夢中から覚めて小っ恥ずかしくなるのは、
人生を生き切って、
あの世に帰ってからも同じです。
めり込むには覚悟が必要です。

仕事を「使命」にまで格上げするには
相当の敷居があります。

単に仕事が好きなだけでは「使命」にはなりません。
誰か、自分より格上の何者かから、
その仕事をすることを、
託されなければなりません。


仕事を使命と思い、
その想いを継続させ続けた人は偉人となります。
ジャンヌダルク、マザーテレサは、
神様に与えられた使命に生きた人だと思います。


そんな訳で、
よほどしっかりとした確信がない限り
なかなか人に自分の使命をひけらかすことはできないものです。
それをあえてできるというのは、
余程の覚悟や、確信があってのことだろうと思います。

そういう確信を持てることが、
幸せなのです。
羨ましいです。




物事は、確信を抱くことで、
そのようになります。
基本、幸せな人は、
身近に神様を感じることができる人です。
ほぼ、神様から離れて、
幸せに生きるなんて無理です。

神様を意識していなかったとしても、
自分には運がある。
と思える時点で
神様を味方にしています。

自分には神様が着いている。
自分は、神様の加護を受けている。
そう思えるかどうかが、
幸せな人生を生きていけるかどうかの
分かれ道になります。

自分は、神様に見放されていて、運がない。
と思っている人には幸運はやってくることはなく、
いつも、不幸で居なければなりません。

しかし、神様がいつも自分についてくれていて、
味方してくれる。
そう思える人は、
目の前の障害や困難を乗り越えることで、
その乗り越える最中、その後に、
感動があることを知っています。

それで、いつも生き生きしています。

神様に見放されている。
と思っている人は、
どうしたら、自分は神様の加護を受けることができるか?
思い巡らせてみると良いかもしれません。

神様の想いに逆らって生きている限り、
どんなに頑張ろうと、幸せにはなれないと
私には思えます。

その神様の想いは、
どこかの宗教家、どこかのチャネラーに
言われたことを鵜呑みにしてしまうと、
後で、覚めた時に、膝を崩すことになるかもしれません。
それでも、それを信じて、
夢中になっている間は、
幸せなんですけれどね。

自分が生まれてきた目的に想いを馳せ、
想いを巡らせてみてください。
その目的を見定める中で、
自分が何をして、
この世の中にどんな影響を与えるか?
という目標が生まれます。

過去世の罪を背負って生きていると思っている人は、
どうしたら、その罪をあがない、払拭できるか
考えてみるのも一つかもしれません。
おそらく、悲哀に暮れて生きているよりも、
まともな人生に変わると思います。

その目標を達成することが
自分が信じる神様に自分が人生の中で
やるべき仕事として与えられていた。

それはきっと、「使命」となるでしょう。

そして、自分が成したことが、
どのように社会、世界に影響するのか?
そのことを自分が喜べるか?
は、夢中になる前に確認しておくのが良いと思います。

さもないと、誰かに踊らされ、
気づいた時には、
自分が意図しない影響を
社会に与えてしまうかもしれません。


私は
使命感で行動している人を羨ましく思う反面、
後で目が覚めたら、後悔に打ちひしがれるんだろうな。
と思って、そういう人を見て居ることも多いです。

できれば、マハトマガンジーのように、
味方だけでなく、敵対者も慈しむことで、
目が覚めても良かったと思えるようにしたいですね。



神様は、私たちが何をしていようと、
幸せを与えてくれています。
でも、自ら幸せを感じられない人は、
神様の望みを叶える。
という仕事を得ることで、
幸せに生きていくことができるかもしれません。
それは、
神様の望みを叶える仕事をしているのですから、
必ず、幸せになるはずです。
必ず、幸せに過ごせるはずです。

そしてそれは、
敵対する誰かであっても、
幸せにすることであって欲しいですね。

それはきっと、
自分に託された人生の使命だと思います。


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