mixiユーザー(id:6002189)

2021年06月08日00:33

103 view

日独交流150年秘話(1)

2010年12月に書いた記事です。


 今年は、1861年に日本とドイツが修好通商条約に調印してから、150年目にあたる。この節目の年を記念して、日独の外務省や経済団体は、コンサートや展覧会など様々な文化行事を予定している。

だが厳密に言うとこの当時ドイツはまだ統一されておらず、大小の王国がまるでパッチワークのようにバラバラに存在していた。

1万キロ離れた日本まではるばるやってきたのは、その中の1国、プロイセン王国の使節団である。今日のベルリンやブランデンブルク州にあたる地域を領土とする国である。実際日本史の中では、この条約はプロイセンの頭文字をとって「日普修好通商条約」と呼ばれている。

 プロイセンの特命全権大使オイレンブルク伯爵に率いられた遠征団が江戸に到着したのは、1860年(万延元年)7月。ビスマルクによってドイツが初めて統一される11年前のことである。

 この頃欧米の列強たちは、すでに東アジアに殺到していた。1853年に米国のペリーの黒船が浦賀に来航して以来、英国、ロシア、フランスなどが次々に日本を訪れて通商条約や和親条約を結ぶ。

1856年には米国のハリス総領事が下田に着任している。日本国内では外国の干渉に反対する攘夷派と、開国派の間で激しい抗争が繰り広げられていた。

1860年3月には攘夷派を弾圧した老中・井伊直弼がいわゆる「桜田門外の変」で暗殺されている。
 こうした騒然とした雰囲気の中、後進国プロイセンは他国に遅れまいとして、はるばる日本までやって来たのである。

今日では「日独友好150年」などと呼ばれるが、当時の欧米列強が江戸幕府に押し付けた通商条約は、不平等条約以外の何物でもなかった。

たとえば米国が日本と結んだ日米通商条約によると、日本で米国人が法律を犯しても、日本の裁判権は及ばなかった。また関税率も米国が日本に輸出する商品には低く、日本が米国に輸出する商品には高く設定されていた上、江戸幕府には関税率の決定に関わる権利も認められていなかった。

だが列強諸国のように圧倒的な武力を持っていなかった江戸幕府は、自国にとって不利な条約でも泣く泣く調印するしかなかった。

100年以上にわたって鎖国していた国が欧米と戦争を始めても、勝てる見込みは全くなかったからである。江戸幕府の重臣たちは、祖国を列強の植民地にされないためには、軍事力増強がいかに重要であるかをかみしめたに違いない。(続く)

(文と絵・ミュンヘン在住 熊谷 徹)

1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する