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2021年06月06日14:11

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非情!ベルリンの壁

2008年3月に書いた記事です。

 来年は、ベルリンの壁が崩壊してから20年目にあたる。このため私は、いま壁の歴史について調べている。

1961年8月13日、午前1時。人々が眠りに就こうとしていた東ベルリンに、トラックの騒音が響き渡った。東ドイツ人民軍の兵士ら約1万2000人が、西ベルリンへの境界を封鎖し、交通を完全に遮断したのである。

夜が明けると、東ドイツ政府は、西ベルリンとの境界に、トラックでコンクリートの柱を運び始める。

彼らは、東西ベルリンを分断するために、壁の建設を始めたのだ。当時西ベルリン市長だったヴィリー・ブラントは、回想録の中で「(東ドイツ政府が)東ベルリンを壁で囲ってしまうとは、想像もしていなかった」と語っている。

わずか2ヶ月前に、東ドイツ政府は「壁を建設する意図は、全くない」という声明を出していたからである。

ベルリンの壁は、全長150キロメートル。国境地帯で警備にあたる兵士や警官たちは、壁を超えて逃げようとする東ドイツ市民を見つけた場合、銃で撃つことを命じられていた。

1961年8月24日、ギュンター・リフティンという青年が、ミッテ地区の運河を泳いで、西側に亡命しようとした。彼は西ベルリンで裁縫職人として働いていたが、壁が建設されたために通勤できなくなり、失業していた。そこで、逃亡を試みたのである。

だがリフティン氏は、西側に泳ぎ着く前に、東側の交通警察官に発見されて射殺された。彼は、ベルリンの壁を超えようとして射殺された、最初の犠牲者である。

彼を撃った2人の警官は、東ドイツ政府から表彰され、恩賜の時計と200マルクの賞与を受け取った。彼らはドイツ統一後、殺人の罪で起訴されて有罪判決を受けたが、執行猶予付きの刑にとどまったため、刑務所に服役することはなかった。

ドイツ統一後の2003年に、彼の弟ユルゲンさんは、現場に近い所にある国境警備隊の監視塔に、殺された兄を悼むための小さな資料館を開いた。

彼は、毎日この監視塔に行き、兄が殺された状況について、見学者に語る。「兄は、見つかった時に水中で手を挙げて、投降しようとしていました。それなのに、警官は彼を撃ち殺したのです」。

壁は、ベルリンを28年間にわたって分断した。この期間に、西側へ逃げようとして殺害された市民の数は、ベルリンだけで190人にのぼる。

ベルリン以外の地域、さらに壁ができる前の時期も含めると、西側への亡命を図って命を落とした人の数は、約890人に達する。社会主義政権の非情さに、震撼(しんかん)せざるを得ない。

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