なぜ生きる
そんなことを考え出すのはいつごろからか
今は小学生でも自殺する時代だ。
なぜといったら必要とされるからだ。
特別なものなどある必要はない。
どんな時でも、どんな場所でも、どんな境遇でも、
必要のない人間などいない。
それに疑問が生まれたとき、一番の絶望が襲ってくる。
自身を絶つ者は、自らの挫折が引き金になる。ということもあるだろう。
でも、それも社会がある中での話なのだ。
まったく他人がいない中では実は挫折は生まれないし、それこそ生きてはいけない。
違うと反論があることは承知だ。
しかし、落ち着いてその理由を再度考える。
他人を介しない自分はどんなものかを考える。
自ずと答えは同じものにならないだろうか
自分の必要性を疑ってはならない。
残念ながら
自分が必要とされたいところで必要とされるのは難しい。
しかし、そこに絶望してはならない。
自らを知るのだ。
分相応という言葉をネガティブに思っている人が多いが、
幸せになるにはいかに分相応に副うかなのだ。
他の一時的な評価に振り回されてはならない。
幸せは自分しかわからないのだから。
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