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2021年04月26日02:04

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【そもそも人間学とは何か】 日常生活の心身養生法

知古嶋芳琉です。

 「気力」を養う養生訓をご紹介します。

私が特に留意しているのは呼吸法で、

スポーツや武道でも要領は同じだと思う経験があります。

出典は安岡正篤師の講話集、

『運命を創る』(プレジデント社)です。

−−−ここからは引用です−−−

■ 「気力」を養う養生訓

○ 敏忙人の身心摂養法

<静坐の効用>

 次に、暇があったなら、否、あらゆる機会に

静坐することであります。静坐の功徳、静坐の学理はもう

事新しく説く必要もないと思います。

禅家、神道家、儒家、何流の静坐でも、

それぞれ特徴がありますが、私自身の体験では、

日本人がつくり上げた武士道時代の坐法が

肉体的にも精神的にも一番良いと思います。

私が痔を病みましたとき、日本流の静坐が一番良かったと、

それこそ痛切に体験をしました。

−−

静坐には調息が伴います。

息については専門的には深い研究がありますが、

とにかく、

できるだけ息を静かに和やかにすればよいのです。

胎息・踵息というような文字だけでも分かることです。

およそ東洋の学問・芸道で息を論じないものはない。

宗教はもちろんのこと、

剣道・柔道の如き武道でも、

あるいは絵を描くにしても、茶でも花でも、

何をやるにしても息が大切であります。

人と人との関係も「呼吸が合う」と言います。

あれは実に意義の深いことであります。

 日本人の使っている言葉というものは、

我々が何気なく使っている言葉の中に

深い真理が籠もっていることが多い。

下世話にも、「あいつは鼻息が荒い」という言葉がある。

古人の説明によれば、坐り方にも坐法があるように、

呼吸にも法がある。

大体自分の息が人に聞こえるような息、

荒い鼻息は「風」という。

息とは言わない。

息の部類に属さない。

これは健康が悪いか、心が整わないか、いずれかである。

そこで風が少し治まると、これを「喘(ぜん)」と言う。

「喘(ぜん:あえぐこと。苦しそうにせわしく呼吸する)」

も息の部類に入らない。

それは呼吸にどこか無理がある。

なだらかではない。

これがもう少し練れてきて、

よほど落ち着いてきたものを「気」と言う。

それでもまだ息とは言わないのです。

本当の「息」は第四段に至って初めて生ずるものです。

「息」とは、有るが如く無きが如く、

出入綿々として鼻端に鳥の羽毛を当てても動かない

というくらいまでいかなければいけないのであります。

剣道なども少し上達してくれば呼吸で分かる。

相手の鼻息の聞こえるような奴は、恐るるに足らん。

名人になるほど寂然静虚です。

それは上達すれば自ずから呼吸が調ってくる。

スリが警視庁に捕まっていろいろ訊問されたときの話だが、

擦れ違ったとき、

鼻息の聞こえるような奴ならいつでもすれる。

どうも息の分からんような奴は危ない、

と述懐しておったそうであります。

スリ道でも偉いものです。

−−

 次いでは「安眠」です。

よく眠ることです。

眠ることならお手のものだと皆思うけれども、

案外そうではない。

身は横になっても、本当に眠っておらない。

ウトウトして、醒睡の間に在るわけです。

本当に眠る時間はごく少ない。

安眠熟睡さえすれば、そう長く寝る必要はない。

質と時とを併せて考えなければなりませぬ。

ことに質であります。

質さえ善く安く眠れば時間はまあ、四、五時間で結構です。

八時間眠ることは贅沢であります。

間にちょっと十分か十五分眠れば足りると思います。

ただ、旅行をしたり、何か特別に疲れた時は

この限りではありません。

熟睡と安眠とも違います。

良心に疚(やま)しいことがあると、

熟睡をしても安眠はしない。

熟睡の前後その根底に絶えず不安があります。

睡眠剤は極力避けるべきです。

入浴とか按摩とか、電気とか光線とか、

あるいは一盃の美酒とかなんとか、

方法を講じた方がよろしい。

平生ネギを食うこと、

ネギの白根がなければ玉ねぎでもよいが、

一番よく効くのはネギの白根、

それを刻んで枕元で香を吸うても熟睡に導きます。

それから血圧の高い者はいけませぬが、

異常のない限り、後頭部に

罨法(あんぽう:身体の一部分に温熱あるいは

寒冷な刺激を加えることによって、

病気の好転や自覚症状の軽減を図る療法)をする、

アルコールでも二、三滴落とせばなおよろしい。

そうすると非常によく眠れます。

−−

 次は「六根清浄」ということです。

昔の人が登山をするときに、「六根清浄、六根清浄」という、

六根を清浄にすること実によろしい。

古人の良い体験です。

六根とはいうまでもなく眼、耳、鼻、舌、身、意、

つまり視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚と主観の根元です。

その六根、なかんずく眼と口を始終清浄にする。

口の反対が肛門です。

それで肛門を清める。

痔も結局これがよろしい。

本を読む者は眼を洗わねばなりません。

眼を丈夫にするには洗うに限ります。

清水の中に目を開閉し、

あるいは水道の口にゴム管をつけて、水圧を利用して

それで眼を洗う。

最初のうちは眼を開けぬ人が多いが、

眼瞼(まぶた)の上からでもよろしい、

二、三分ずつ両眼を水圧で打たせる。

そのうち楽に開けるようになります。

冷眼熱腸といって、

眼がはれぼったく熱っぽいようでは駄目であります。

トラホームなども結構治癒します。

かくして天眼、法眼など開ければますます妙。

−−

 その次には「足腰を冷やさぬこと」。

「足」という字をなぜ「足る」と訓(よ)むか。

手るでたると読みそうに思ったが、

生理・病理の研究で初めて明らかになりました。

手ではたりぬ。

やはり「足」でなければいけません。

足を大切にすれば健康の条件が足ります。

足を大切にする第一は冷やさぬことであります。

足の血液はなかなか肝臓、心臓に還ってこない。

循環が悪くなると足が冷える。

それに足の踝(くるぶし)とか膝頭は、

いろいろの黴菌(ばいきん)が集まる。

どうしても足を善くしなければなりません。

−−

 それから、腰は「要」という字を当てはめてあるように、

我々の身体の要(かなめ)で、

腰の番(つが)いが悪くなっておると、

いわゆる「腰抜け」といって、

昔の人が罵(ののし)ったとおり、

もう三十以上になると、

ある程度腰抜けになっておるもんですが、

これから背骨が狂い、

内蔵や頭の具合までいけなくなります。

それに、ここには脂肪の老廃物などが溜まっていけない。 

風呂に入るときも、ザブッと浸かってはいけません。

徐々に沈むこと。

心臓を出して、臍輪(さいりん:世界大百科事典内の臍輪の

言及、【臍】より、臍帯(さいたい)(俗にいう〈へその緒〉)が

胎児に付着していた部分,すなわち臍輪の跡。

臍帯は臍輪によって輪ゴムのようにとりまかれているが,

生後日がたつにつれて,その締めつけが強くなり,

臍帯の中を走る臍動静脈も閉塞し,結合組織化して,

臍帯が脱落する。)

気海(きかい:漢方で、

へその下方1寸5分(大人で約3センチ)の所。

任脈(にんみゃく)に属し、腎炎・糖尿病などの治療点)

丹田(たんでん:伝統中国医学、

東洋医学における関元穴に相当し、

へその下3寸に位置する。意味は気の田のこと)

腰脚足心を温めるのです。

それにはただの風呂より大根の乾葉でも用意して

乾葉湯をつくるのです。

昔の農家は必ずやったものでありますが、

この頃は百姓がそういうことを忘れてしまっております。

大根は何から何まで有り難いものです。

それから足の三里に灸をすえる。

これは非常な効能があります。

昔の諺にも

「三里に灸のない人と一緒に旅をするな」

というほどです。

−−−引用はここまでです−−−

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