mixiユーザー(id:1312884)

2021年04月16日15:58

31 view

【そもそも人間学とは何か】 病気になる十の因縁

知古嶋芳琉です。

 よく、頑固な人はガンになると申します。

また、怒りっぽい人は早死にするとも申します。

こういうことは全くの迷信かというと、

意外にもその遠因として、

心理作用が臓器に及び、

例えば、怒りを発すると肝臓や血液や肺を傷める

というような研究の成果も

発表されるようになって参りました。

やっぱり

「病は気から」と言われてきた格言の正しさを

認めざるを得ないことになります。

バランスの取れたホルモンや酵素の分泌が損なわれる

というのですから、しっかりした根拠のあるお話しです。

 大昔の話ですが、

あの『三国志』の中にもこういうお話しがあります。

 軍師:諸葛孔明が、ある戦いの場に臨んだときのこと、

敵味方の軍勢が向かい合って、いよいよ開戦という時に、

昔はそれぞれの軍の大将が、

「やあやあ我こそは・・・」と名乗りをあげたもので、

その時の敵の将軍は

かなり歳を取った年寄りだったという。

そこで、先にその老将軍が名乗りをあげ、

相手の軍勢の戦意を喪失させるために、

悪口雑言の限りを尽くしてこき下ろしました。

これを受けて孔明は、それにも勝る勢いで、

その老将軍をこき下ろしたら、

その老将軍は馬の上で憤死したというのです。

たった罵詈雑言を言われたくらいで、

人間が死ぬかと思うでしょうが、

それは決して大げさな作り話とばかりは言えないのです。

なぜならば、

昔の戦争では、

矢の矢じりには、必ず毒を塗っていたもので、

歴戦の勇士であれば、

何本かの毒入りの矢をその身に受けていたはずです。

その毒とは、

必ずしもすぐに効いて死んでしまうとは限らず、

薬草のお陰で

何とか表面的には傷が治ったかのように見えても、

実は

確実に内蔵を傷めていた可能性があるわけです。

しかも

その毒が内蔵に蓄積され、

度々戦場に出て行っては矢を身に受け、

毒を体内に蓄積することが重なっていたと考えられます。

戦争に行くたびに、毒を飲まされていたようなものです。

しかも、このような毒が体中にまわっておりますと、

薬草で治療をしておりましても、なかなか治らず、

治癒のためには、

決して怒らないように

心掛けなければならなかったと言いますから、

それから推測しても、

あまりにも激しやすい老将軍であれば、

いよいよ開戦という場に立てば、

テンションは最高潮に達しているはずで、

そんなときに罵詈雑言をあびせられれば、

烈火のごとく怒ったことでしょう。

そうなれば、一気に血圧も上がれば、

心臓もバクバクしてくるでしょうし、

内蔵がパニック状態に陥っても少しもおかしくはありません。

したがって、

脳溢血になったり、心臓麻痺も考えられますし、

脳梗塞とか、脳の動脈瘤が破裂するとか、

心肺機能が停止する可能性もありますから、

まんざら馬上で頓死したとしても、

少しもおかしくはないのです。

それから考えてみますと、

諸葛孔明は、そこまで予測していたのではないか、

ダメでもともとだと考えて、

思いっきり悪口を言ってみたのではないか。

あの策士家のことですから、

きっと、それくらいのことは

考えていたのではないかと思うのです。

そうなれば、

目の上のたんこぶみたいなイヤな爺さんがいたら、

何かにつけて怒らせていれば、

勝手に死んでくれますから、

イヤな爺さんを殺すのに

毒も刃物もいらないということになります。

ずいぶんと物騒なお話しになってまいりました。

ここでご紹介するのは、

安岡正篤師の講話集、

『運命を創る』(プレジデント社)からの引用です。

−−−ここからが引用です−−−

■ 「気力」を養う養生訓

○ 敏忙人の身心摂養法

<病気をひき起こす十の因縁>

 さてそこで次にご紹介するのが

『仏医経』あるいは

『仏医王経』の中にある健康法です。

「仏は医王なり」という言葉がありますが、

仏は医者の王であると申します。

これは仏が衆生の心を医すこと。

ちょうど医者が病人を救うが如きものであるから

仏を医王と言うと思っていたが、そうではない。

昔、人智の発達しないとき、

人間が精神ばかりではない、

肉体も疾病に悩んで、せんすべも知らなかった。

そこに釈迦を始めとして祖師たちは、

いずれも皆まずもって本当に医者であった。

その次には社会問題の解決者であった。

医者であり、薬師如来であり、

観世音菩薩であったのです。

その仏医王経、仏医経に

「人が病気を得るのに十因縁がある」といって、

十箇条目を挙しております。

まことに守りやすい平明なことです。

 第一、「久坐食わず」ということ。

これは山林仏教のことで、

現代の我々に「久坐食わず」というようなことはありませぬ。

「久労不食」の世になりました。

あるいは「不時而食」

(不規則な食べ方をすること)に改めるとよいでしょう。

 第二、「食不貸」。

たらふく食うこと、何でもいつでも食うことです。

何によらず禍(わざわい)は口より入るものです。

いったい日本人は食いすぎます。

必要以上に胃の中に入れておらぬと済まぬ気がする。

一度飯を抜かすとフラフラするというような者が

少なくありません。

三度三度胃の腑を満たすことが習慣になっておるから、

栄養的には必要がないけれども胃嚢が承知しない。

妙なものです。

食物が常に窮乏している国々では、

たとえば蒙古民族など、実に食べない。

彼(か)の曠野(こうや)に馬に鞭打って

馳駆(ちく:馬を走らせること)している若盛りの男が、

腰の袋に乾飯を入れて、

その一握りを頬ばって羊の乳を飲む程度で済むのです。

それでは日本人より痩せているかというとそうではない。

たくましい肉体をしておる。

我々の細胞は、ある適度な刺激を与えると

自体分化発達していく本能があるのです。

必ずしもたくさん胃嚢に詰める必要はない。

それはかえって有害です。

だから日本人は胃酸過多症や胃下垂が多い。

これは差し当たっての食糧問題ばかりでなく、

根本的に習慣を直さなければならぬと思っております。

私などは時々食わぬ稽古をしております。

友だちでもあるときは仕方がありませぬ、

人情からいっても、食堂に行ってお茶を飲もうか、

食事をしようかということもありますが、

そうでない

唯一人で汽車に乗るときなど、

これ幸いと

一日食わず飲まずに

窓外の景色を見たり

本を読んだりすることがあります。

健康に非常に良いようです。

しかるに見ておると、

日本人は乗り物に乗りさえすれば食う人が多い。

だから日本の乗り物くらい

弁当の折やら蜜柑の皮やら、

いろいろな物が散らかって

汚いものは他国にはないような気がします。

 第三、「疲極」。

ある限度以上に疲れてはいけない。

肉体的ばかりではありませぬ、精神的にもそうです。

読書をするにしても、

頭が疲れたときに、ねじり鉢巻で勉強しても駄目です。

試験前夜、ねじり鉢巻で勉強したような者は、

その時分かったようでも、

後では朦朧として一向役に立たぬものです。

弱いものは病気になります。

小学校から大学まで二十年近くかかって卒業しながら、

空々寂々はなんと情けないことでしょう。

『孟子』に

「綽々(しゃくしゃく)乎(こ)として裕(ゆう)なる哉(かな)」

という名言があるが、

実際、我々の胃嚢ばかりでなく、

精神的にも綽々たる余裕がなければなりません。

疲れすぎてはいけません。

 第四、「淫佚(いんいつ:怠けて遊興にふけること。

男女関係が淫らなこと)」。

男女の欲ばかりでなく、

すべて

享楽の度を過ごすことです。

第五、「憂悶(ゆうもん)」。

我々は憂悶(ゆうもん:思い悩み、苦しむこと)すると、

生理的にもいろいろの反応を生じ、

有害なことは申すまでもありません。

この頃の医学は身心の相関関係をよく解明してきました。

 第六、「瞋(しん)恚(い)」。

目に稜(かど)立てて恚(いか)るということは

善い人でも案外家庭などでありがちです。

東洋最古の医書といわれる

『素問』や『霊柩』という書がありますが、

『素問』の中に

「上古天真論」という

私の愛誦する一篇がありまして、

その中で「恚」が健康に一番いけないと言っています。

怒りの肝臓や血液や脳髄や呼吸に及ぼす作用などが

かなり明らかになっています。

 第七は、「上風を制すること」。

 第八は、「下風を制すること」。

上風はあくび、おくび。

下風は屁であることは申すまでもない。

人前では無礼ですが、

そこはしかるべくやるべきであります。

「嫁の屁は五臓六腑をかけめぐり」

(嫁が人前をはばかり、我慢に我慢を重ねて苦悶するさま)

など、いかにも同情にたえません。

 第九、「忍小便」。

 第十、「忍大便」。

これも講釈はいりません。

 一般の人々は、

難しい戒律は課せられてもやれるものではないが、

この『仏医経』の「十因縁」などは、

親切平易で、まことに結構です。

−−−引用はここまでです−−−

ここからは知古嶋芳琉が書いています。

ここでのお話しの中にも、

「怒りが肝臓や血液や脳髄や呼吸に

悪影響を及ぼす作用などが

かなり明らかになっています」

というくだりがございました。

いかにしてこの「怒り」の感情をコントロールするか、

あるいは

極めて低級な本能とか欲求を克服するか、

これは誰にでも共通する

心身の健康管理の課題です。

ところが、

それにも増して、

恐怖心を克服することが

極めて重要な要素となってきたのは、

実に喜ばしいことです。

それはNHKの特集でもやっておりましたが、

永年の腰痛に苦しんできた人たちが、

痛みへの恐怖心を克服する処置を施せば、

かなりの割合で、

腰痛から開放された例が紹介されていたように、

物理的には痛みは発生していないのに、

人間の頭脳が勝手に痛みの信号を出していたという、

驚くべき事実が明確になってきたからです。

 実を申しますと、

この恐怖心が

人間のあらゆる能力の発揮を妨げている事実は、

既に様々な場面で明確になっていることでありまして、

メンタル・トレーニング、

あるいは、

メンタル・マネジメントの世界では、

何十年も前から、

その処方は開発済みなのです。

それに比べれば、

いわゆる西洋医学が、

いかに時代遅れに陥っているかが

分かろうというものであります。

これはまた、安岡先生に言わせれば、

専門的愚昧ということになる訳であります。

医学、医学と、医学のことしか考えない医者どもが、

いかに閉鎖的な世界で生きているかの証明であります。

そしてそれは、

何も医学に限ったことではなくて、

あらゆる学問の世界が、

その閉鎖性が故の遅れを取っているのが現実なのです。

ですから、

私は本当に学者にならなくて良かったと思うのであります。

 なぜならば、

今までコーチとして出会った大学の先生ほど、

手こずった人たちはいないからです。

その顛末を語っていたら、

彼らの悪口の限りを語り尽くすことになってしまうので、

口が裂けても言えないのですが、

とにかく、

素直でもなければ正直でもない上に、

自分の立場を忘れて、

コーチの私を攻撃するようになる。

そうなってしまうと、

既にコーチングの現場は論争の場と化してしまい、

戦場になってしまうのです。

その状況から抜け出すには、

大変なエネルギーを消費してしまいます。

そして、

軌道修正のために時間と労力を使い果たすのです。

肝腎な

コーチングのプロセスが前に進まなくなります。

こうなってしまうと、

一旦、冷却期間を置かなくてはなりません。

そんな、無駄な時間ばかりが浪費されるようになります。

手こずるという言葉の意味はそういうことです。

クライアントが素直で正直な人であれば、

驚異的とも言える短時間で事は済んでしまいます。

そのような場合は、

クライアントが結果を出す速度は益々加速されて、

しかも

驚異的なパワーと能力を発揮してくれます。

そんなクライアントを見ていると、

元々人間に備わっている潜在能力は、

無限であることがよく分かります。

前回のブログでご紹介した、田園調布の住人が好例です。

私たちコーチは、

クライアントの中に潜在する

能力とパワーを引き出してあげることが仕事なのです。

0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する