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2021年03月04日10:59

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里見の丘へ

お隣市川市の国府台に里見公園という場所が有ります。
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高校卒業後、半年ほどすぐ近くの学校に通っていたのですが、実は里見公園に行った事は未だ無し。
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国府台という地名のとおり、古代から下総国の国府が置かれた場所であり、国分寺や国分尼寺も有りました(国分寺は後継寺院が現存)。
前から気になっていたのですが、漸く行ってこれました。

市川広小路交差点から江戸川堤防上に出て、北へ歩くと右手が和洋女子大となり、更にその先が里見公園です。
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噴水広場や芝生広場が有り、河津桜が咲いていたりなど、一般的な公園のようにも見えますが、国府台城址でもあります。
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15世紀に始まった関東擾乱の時代、千葉氏も公方派と管領派に分かれて争い、この地も争奪戦の舞台となります。
そして、家康の関東移封によって廃城となりました。
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しかし、この公園の名称は国府台城址公園ではなく里見公園。
房総を代表する戦国大名里見氏が北条に大敗した国府台合戦が2回(3回説も有り)行われたからでしょう。

第一次合戦は、小弓(おゆみ)公方が率いる房総連合軍の一員としての参戦でした。
この戦いで公方足利義明が討ち死にし、小弓公方家は滅亡。
但し、義明に見切りをつけたのか、里見軍は積極的に戦わずに撤退していったそう。
余談ながら、義明の孫は後に喜連川を名乗り、大名となりました。

そして自ら房総諸将を率いて北条と戦った第二次合戦、序盤は優位に戦いを進めましたが、北条方の夜襲に大敗して上総へ潰走。
暫くは北条の攻勢に苦しみながらも、三舟山の合戦に大勝して再び房総の雄に返り咲きしました。

さて
広場部はともかく、江戸川に面した西側は土塁などが残り、城址らしさを感じます。
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木々が切れた場所からは、今正に沈まんとしている夕陽を望めました。
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小さな滝が有ります。
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市川市最高地点だそう!
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夜泣き石
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里見家の当主義弘の甥にあたる武将里見広次はこの合戦で戦死しましたが、それを聞いて駆けつけた広次の娘(12才)は、死屍累々の光景を見て、大きな石にもたれて泣き続けて亡くなりました。
それ以降、夜になると泣き声が聞こえるようになった…
そういった言い伝えが有ります。

但し広次は戦死時15才、いくら現代より早婚だと言っても12才の子はいないでしょう。
とは言えこの合戦で親を亡くした子が多かった事も確か。
そうした子を見た里の人が、若くして戦死した広次になぞらえて語り継いできたのかもしれません。

春残照
川面に浮かぶ
ふといがわ
映すは花か
数多(あまた)の戦

「ふといがわ」というのは江戸川の古名です。

茶店は昨今の状勢で休業中
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公園を出て松戸街道へ出ると、向かいに有るのが国立国府台病院。
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昔は、細い廊下がカクカク繋がっている、如何にも国立病院!というイメージでしたが、いつの間にか今風の建物が出来てました。
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隣は官舎でしょうか。
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そして、「国際医療研究センター」がアタマに付いている!
この名称だと、新宿区戸山の施設が先ず浮かびますが…いつの間に!

少し先には国府神社という神社が有りました。
半年ほど通っていた時期には気付きませんでしたが、町中に寺社が実に多い!
さすが国府!
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あっ
国分寺行くの忘れた(;>_<;)
改めて行ってこないと
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