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2021年01月31日23:10

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空港との戦い

2001年に書いた記事です。


世間の人々が「国際ジャ−ナリスト」という呼び名を聞いて、ふつう思いつくのは、大手新聞社や放送局の社員で、外国に取材のために一定の期間にわたって出張したり、特派員として派遣されたりする記者であろう。実際、マスコミに身を置いたことのない人が特派員のレポ−トをテレビで見たり、記事を読んだりすると、いかにも華々しい仕事をしているように見えるに違いない。ところがほとんど全ての職業がそうであるように、実際はとても泥臭い、目に見えない部分で苦労が多い仕事である。1987年の秋に私が東京の某公共放送局で働いていた頃のことである。土曜日の午後、会社で書類を読んでいたら、「モ−リシャス沖で南アフリカ航空機が墜落した」というニュ−ス速報がテレビに流れた。この時点では日本人が乗っていたかどうかはわからなかった。しかし台湾から南アフリカへ向かっていたというので、念のため台北の空港へ電話を入れてみた。最初はなかなか埒があかなかったが、航空会社の職員に何回か電話をかけている内に、一人の台湾人が「日本の漁業関係者が数十人は乗り込んでいた」と教えてくれた。このことを上司に言うと、社内は蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。この一報を書いたのが午後三時頃である。すると上司があたかも都内に取材へ行けとでも命令するかのように「ちょっとモ−リシャスへ行ってくれ」と言う。さすがにウ−ルの背広ではアフリカへ仕事に行くことはできない。私はタクシ−を新宿百人町の下宿へ走らせると、十五分間で荷造りをして会社へ戻り、その日の午後十時には、成田空港からアフリカへ飛び立った。同行した家族持ちのカメラマンは、空港へ向かう車の中から、自動車電話で妻に「これからアフリカへ行ってくるから」と連絡していた。私は当時独身だったが、心ひそかに「家族のいる人はこういう仕事では大変だな」と思った。その後、モ−リシャスで墜落事故について約一週間取材した。すると今度は大韓航空機が爆破され、インド洋に墜落したという連絡が東京から入ってきた。デスクは私に「犯人の一人と見られる女(金賢姫)がバ−レ−ンで逮捕されたから、すぐに行ってくれ」と言う。すぐさま私はモーリシャスの旅行代理店で航空券を買うと、機上の人に。バ−レ−ンの空港に着いてトランジット・ビザを取ろうとしたものの、ジャーナリストの取材を制限するためか、アジア人と見ると窓口でパスポ−トを取り上げたまま、全く入国させてくれない。出国のための搭乗券を持ってくれば、パスポ−トを返してやるという。東京の上司に連絡すると、「空港でなにか動きがあるかもしれないから、そこに張り込んでいてくれ」と言う。待合室にいても何かわかるわけはないのだが、マスコミでの上司の命令は、軍隊の上官の命令に等しく、絶対服従が原則である。このため私は空港の待合室に4日間泊りこむことになった。昼は地元の新聞を読み、夜はフィリピン人の出稼ぎ労働者たちが疲れて眠り込んでいる長椅子で、荷物を枕にして、眠る。待つことには、日本の事件取材の張り込みや夜回りで慣れているとはいえ、三日目に鏡で自分の顔を見ると、目の周りに隈ができていた。さらにバ−レ−ンの私服警察官とおぼしき連中が、私を監視しているのに気づいた。レストランで彼らをジ−ッと見つめていると、決まり悪そうに出ていくのだが、同じ男たちが別の入り口からまた入ってくるので、すぐに警察官とわかってしまう。五日目にデスクから帰国を許可された時にはさすがにほっとした。こんなわけで、バーレーン空港は一生忘れられない。

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