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2021年01月11日00:44

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日本の行く末

今年一発目だけど。若干ネガティブなことをば。
昨年の11月から参入しているプロジェクトがメチャクチャで、元請の会社もメチャクチャなら、顧客もメチャクチャで、こんなものを本当に世に出していいのか?っていう状態なのである。
まだ僕は契約切れていないので、詳細には書けないが、契約も関係も切れたらいつかは詳細を暴露はする。
ともかく、どうあってもリリースできる状態ではないのに、顧客も意地になって「リリースしろ!」と言い出す始末だし、元請の会社も、なかなか「ごめんなさい」しない。何というか会社同士の意地の張り合いみたいな様相なんだが、恐らく違約金やら損害賠償やらをいかに抑えるかのせめぎ合いなんだろうと思う。
ただ、こんなものが世に出てしまえば、困るのは顧客のとこの従業員だし、もっと言えば消費者だし、売上げは格段に低下し赤字なんてもんじゃなかろうし、世の中を混乱させてしまい経済破綻を起こしてしまう。新聞沙汰になることも間違いない。
僕は、そんな状況に耐えられず、理由をつけて年明けから逃げているんだが、状況報告を聞くにつれ、時間が経つほどに解決に向かうどころか取り返しがつかないところまで来ている気がする。それでも、リリースはやめないのである。
もはやここまで来ると止めるに止められなくなってきてしまっているということか?
合理的に考えれば、今すぐにでも一旦全てをやめ、法律に則り違約金なり損害賠償なりを払って清算し、来年度にでもまた、業者を変えて仕切りなおすのが、最も大勢の人間が幸せになれると思うのだ。

さて、今の状況を評して、僕は良く「昭和20年3月頃の日本」という。その心はいうまでもなく、大東亜戦争終結のタイミングを見失い、戦うほどに被害ばかりが拡大していくにも関わらず、まだ戦争を続けようとしていたこと。
負け戦ならば、さっさと降伏し、責任者を処罰し損害賠償を払うことで、なるべく多くの国民を救わなければならないのが合理的な判断だろう。
しかしそれが出来ずに、ウダウダと勝ち目のない戦争を続けてしまう。もう軍人も一般人も厭戦気分に満たされているのに、言い出すことも出来ない空気感が充満している。
今でもそうだ。誰もがリリースなどしても失敗すると思っていても、「こんなことやめよう」と言い出せない空気感に満たされていて、時間が経つほどに被害が広がっていく。
僕は、日本人は再度、大東亜戦争をしたら全く同じことを繰り返すと思っているが、その理由はこんなところにある。
この空気感が、全体主義的に個人の中での大きな抑圧となってしまい、個々では「こうしたほうが良い」という的確な思いはあるが、その決断ができないでいる。
日本人は、空気を読むことが長けた民族であることで、大きな発展を遂げたが、その逆もしかりである。一旦悪い流れになると、それを断ち切ることができない。
戦後の高度経済成長、バブルの頃は、エコノミックアニマルとして、ガンガンに発展したが、一旦落ち目に入ると、坂道を転げ落ちるように悪い方向へ向かってしまう。
経済発展が無条件で素晴らしいことだという空気が出来上がると、それを否定するものは「非国民」扱いになり、その結果、格差社会だの、環境破壊だのといった副作用が起きても、誰もが目を瞑る。「そんなこといったって、それじゃー生活が成り立たなくなるじゃん」てなもんだ。
思い出すのが、昔、20代の頃「沖縄ポートアイランド計画」に携わっていた女性に話を聞いたときのことだ。
当時はまだ、バブルの余韻が残っている時代で、僕らと同年代は、バブルがはじけて氷河期に入っているのに、まだ美味しい汁がどっかにあるという気分が抜けていなかった。
そこで、「沖縄ポートアイランド計画」と称して、沖縄の再開発を推し進め、沖縄を単なる国際交流の基地にすべくコンクリートで埋めてしまうというもの。
彼女はそれに携わり、その計画に加担することに大きな誇りを感じていたようだが、当時沖縄大好きだった僕は、
「それでは、沖縄特有の文化や自然が死滅してしまうではないか」
といったようなことを言った。すると、
「何いってるの!沖縄を開発したほうが沖縄県民の生活水準もあがるし、幸せになるに決まってるじゃない!じゃあ彼らは、どうやってこれから生活していくの?」
と反論された。僕はそれ以上何も言わなかったが、後日インターネットのBBSで、沖縄の人とやり取りができたので、その話をしてみたら、
「散々蹂躙されてきたが、沖縄人には沖縄人の誇りがある。沖縄特有の生態系を育んできたヤンバルに道1つ通しただけで、その生態系が崩れ、そのことが我々をひどく傷つけた」
といっていた。
まーイマドキは、そういうこというと、「お前サヨクだろ」で片付けられるのだが、僕は人には触れちゃいけない聖域みたいのがあると思っている。
その聖域を侵す行為というのは、たとえ日本人が裕福になろうと、いつか必ずしっぺ返しがくるのではないか、と恐れを抱いている。
経済発展が、全てを差し置いて価値があるものであれば、人間はいつか滅びる。そして人間にはそういうことを回避しようとする本能が備わっていて、どっかで歯止めがかかると信じたいんだが、いろんなことを見聞するにつけ、気持ちが絶望的になる。
例えば、ライブドアの堀江が出てきて、世間を巻き込んだマネーゲームを展開しだしたときに、これが人間の行き着くところか・・と非常に嘆かわしかった。さらに当時は堀江の信者が若者に非常に多かったことも、「世の中終わったな・・」と思った。まあ、堀江が逮捕されたことにより、日本人にもまだ良識が残っていたか、と安堵したものだが。

さて、2020年よりコロナウィルスが猛威を奮い、この7日にも再び緊急事態宣言が発令された。
それによって懸念されるのが経済破綻であろう。
今、飲食店は夜8時には閉まり、さながら「死の町」である。
再びテレワークが推奨され、公共交通の利用者も減り、各業界も売上げの低下は免れないだろう。
皆、死活問題だと声を揃えていう。
だが、ひょっとしたら、人間が行き過ぎた経済活動により、自然を破壊し人類そのものの危機に陥っていることへの神からの警告じゃないだろうか・・と思うことがある。
僕が子供の頃の昭和50年代あたりは、まだ夜はシンと静まり返っていた。それでも高度経済成長→バブルへ差し掛かる時代である。
その前はもっと、夜はシンと静まり返っていたのではないだろうか。
もっと昔は、ノタレ死ぬ人はいたり、子供が売られたりと悲惨な時代があった。僕らの父母の頃は、6畳くらいのあばら家に家族が10人くらいでひしめき合って生活していた、なんて話を耳にタコが出来るくらい聞かされた。
明日食べる米にも困り、家財を質入して米に変えるなんて話もよく聞いた。
そういう人がそこいらにいたのに、今時の貧困というのは、そこまで堕落していない。
この前、仕事で終電を逃し、ネットカフェの快活クラブに泊まったが、一晩2000円も払えば、寝るところが確保できるだけでなく、インターネット見放題、漫画読み放題、コーヒー等の飲み物は飲み放題、ソフトクリーム食べ放題。おまけに無料で朝食まで食べ放題である。その上シャワーまで浴びられる。
ネットカフェの発達っぷりにビックリしたが、今貧困層の代名詞である「ネットカフェ難民」といったって、そこまで贅沢できるのである。果たしてこれが「貧困」なのだろうか?
僕もそこそこ良いマンションを購入して快適な生活をしているが、多くの人がそれに加えて、車を所持していたり、当たり前のようにスマホなどの通信機器を所持していたりする。
東北震災以降、原発不要論が大いに叫ばれているが、今なお、24時間ノンストップで国中の電気は無駄に消費されているであろう。
公共広告機構のCMでは、1日1億個のおにぎりが廃棄されている、というものがあるが、これなぞ物資過剰で贅沢の証である。

ここいらで、少し、日本人が昔から持ち合わせている「清貧」という美徳を取り戻しても良いのではないだろうか?貧しくとも誇り高く。
今時の「生活ができない」という言葉の中には、「贅沢な衣食住に加えて、趣味に金をかけることができない」くらいのレベルになってしまっている。
そうではなく、本当は、雨風が防げるところに住み、1日に最低限のカロリーが摂取でき、ボロ着でも纏えれば十分のはずだ。
一旦、全てをリセットし、そこまで生活レベルを下げても良いのではないかとさえ思う。
昨年からのコロナ騒動は、そういうことを僕らに教えてくれているんじゃなかろうか、と最近思っている。
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