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2020年12月11日00:53

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謝るということ


世界の中では、
「謝る」ことというのはリスクを伴うことのようです。

「謝った。」という一事を通して、
自分が引き起こした失敗ということで、
そこで起こった損失をすべて転嫁されてしまう。
というリスクを
「謝る」という行為にはあると
考えられています。


ですから、
日本以外の国の人々は、
「謝る」ということを
めったにしないようなのです。


日本の社会環境では、
「感謝」と「謝罪」は
社会の潤滑油として頻繁に交わされています。
ありがとうで、相手の貢献感揺すり、
ごめんなさいで、相手の優越感を揺することで、
相手の懐に入り、
関係性を築くことによって、
物事をスムーズに進めることに
重きを置く社会風潮があります。


他の国では、
謝ることで、「損害請求される。」
上げ足を取られる
ということを人々は危惧します。

そのために、迂闊に謝りやすい日本人は、
良いようにカモにされることもあるようです。
ですが、それにより、信頼され、
好感を持たれたりもしています。


正当な理由があったかなかったかは、
さておき、
一旦は身を引き謝ることで、
相手との関係を
少なからず回復するきっかけを作ることができます。
それがないと、相手からは、
こいつは信用ならないと、
不信感をそのままずーっと、
抱かれ続けることになります。

そのため、
自分のした行為の正当性を、
自ら鼓舞して、
こだわり続けないとならないように
なってしまうことになります。

実は、謝ることは、
相手のため、
相手との関係性のためだけでなく、
自分の未来のために役に立つ行為なのです。

謝れないことで、
「正しい私」という殻を、
自己防衛のために、
自分の周りに囲うことになります。

殻で囲った私は、
本当の私ではありません。
囲った分だけ、
本当の私の輝きが鈍ります。

自分で、自分自身の誤りを認めると、
自分で生み出した自分の外側の殻は溶け始め、
きちんと謝罪することで、殻はとろけます。
鎧がなくなります。

その時点で、片意地を張る必要がなくなってしまうので、
本当の私が輝き始めます。

確かに、
裸になったところで叩かれ、
自分の身を守れない。
というリスクは伴いますが、
本当の私を輝かせることができるのです。

そこにあるのは、
本当の私で居ることを、神様が望み、
そのことから神様が
私に良いようにしてくださるという
絶対的な神様への信頼です。

つまり、
強い魂のみが
誤りを認めることができます。
偉大な魂のみが、
「謝る」ということができるのです。

誤りを認め、謝るということは、
「責められる。」というリスクを伴います。

そのリスクを顧みず、
自分が自分で居るために、
誤りを認め謝れる人の魂は、
強くて偉大な魂です。

誤りを認めることで、
適切な対処方法はどうすることか
見直す機会を得ています。
ですから、
次に同じようなことがあったとき、
失敗した事例を思い返して固くなることなく、
適切に対処することができるのです。



自分の周りの人々の魂を、
そういう強くて偉大な魂にするのは、
何かあった時、
責めることを放棄することです。

責めるのではなく、
その相手の失敗した気持ちに共感し、
「やっちまったね。」「失敗したね。」
と語りかければ良いのです。

きっと、そうやって、責められることなく、
自分の気持ちに共感してくれる誰かが身近に居たその人は、
何か起こっても、素直に自分の誤りを認め、謝って、
より良き未来を目指す
強くて偉大な魂になっていくはずです。


他の国々よりも、
素直に誤りを認め、謝ることができる人が多い日本には
他の国々よりも
偉大な魂が集まっており、
より良い未来を生み出す素地があるはずです。


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