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2020年10月07日13:42

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たいら父の「若鷲の歌」 その1

今日の朝ドラ『エール』は主人公が予科練をテーマにした映画の主題歌を作るため、
予科練生と寝食をともにしてみるというお話でした。
こういうお話を見ると、

 海軍の敬礼は狭い船内で隣とぶつからないよう
 もう少し肘を絞らなきゃダメだよ

と突っ込みを入れてしまいたくなるのは、
亡父が予科練出身の飛行兵だったからです。


昭和3年生まれの たいら父は昭和19年に16歳になった途端、
試験を受け予科練生になりました。

 「制服を支給されたら真っ先に
 『若鷲の歌』のとおり桜に碇のボタンが本当に7つあるか数えたよ」

と言っていたのが今でも思い出されます。

自身で志願したのにどうも緊張感に欠けるのは、
志願動機がお国のためではなく「飛行機乗りになりたいから」だったからです。
父の養父は陸軍の軍人それも二次大戦前からの職業軍人だったため、
前線の行軍で辛酸をなめてきた背中を嫌と言うほど見ていたので、
インドア派の自身は陸軍の軍人にはむかないなと常々思っていたそうです。
そんなおり、浪人生だった長兄に赤紙がきて陸軍にとられ、
自分も暢気に学生生活をおくっていたら赤紙がきてしまっては大変なので、
陸軍にとられる前に行軍はなさそうな海軍に志願してしまおうと思い、
メカ好きだしどうせなら飛行機乗りになりたいなと予科練の試験を受けたのです。


理数系にはめっぽう強かった父は無事試験に合格しました。
合格の報を聞いて驚いたのは父の養父母です。
彼らはいくら理数系に強くても国語や社会の試験もあるし、
予科練の難しい試験に父がとおるとは思っていなかったようです。
士官学校卒の職業軍人でそれなりに地位にあった養父は、
昭和19年当時の日本の戦局をよく理解していたため、
敵艦に飛行機ごと体当たりする特攻が実践されたら、
予科練に行って飛行兵になる息子は二度と生きて帰って来ないだろうと思いました。
それを知って養母は泣いて父にすがり、なんとか予科練行きをとめようとしました。


しかし、ことここに至っても父は暢気でした。
と言うのも、

 「絶対に特攻に行くと決まったわけじゃないんだし、
 もし行くことになったって操縦桿を握っているのは自分なんだから
 ギリギリで体当たりを回避して不時着して投降すればいい」

と考えていたからです。
嘘みたいなお話ですが父がよく話していたのでたぶん本当のことなのでしょう。
妙なところが用意周到な父は予科練に行く前日、
投降する時に備えて和英辞典で「降参」という英単語をひき覚えたのだとか。

 「"surrender"って難しい単語だったんで覚えるのが大変だったんだよ。
 今考えてみるとそんな難しい単語を覚えなくても
 "give up"って言って両手を挙げれば通じるよな」

と笑っていましたが笑い事ではないような……。
こんな調子で何事もなく厳しい予科練生活をおくれたのでしょうか。

(その2に続く)
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