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2020年08月17日12:28

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全国に石碑500基超の偉人「いも代官」と先人の熱血調査

 下記は、2020.8.17 付の 産経ニュース の記事です。

                記

 江戸時代、サツマイモ栽培を奨励して飢餓から住民を救い「いも代官」と親しまれた役人がいる。世界遺産、石見(いわみ)銀山遺跡がある石見国大森(島根県大田市)の代官だった井戸平左衛門(いど・へいざえもん)=1672〜1733年。その功績をたたえて建てられた頌徳碑(しょうとくひ)は、中国地方4県で500基以上あるといわれ、一人の役人としては異例の多さだ。同市文化協会は、その碑の全容を明らかにしようと5月、公的機関では初めて本格的な調査に乗り出した。

享保の大飢饉

 平左衛門は、江戸時代中期の享保16(1731)年、60歳で大森代官に着任。翌年の享保の大飢饉(ききん)では、被害に応じて年貢米を免除したり減免したりしたほか、幕府の許可を待たずに代官所の米蔵を開いて住民に米を与えたという。

 一方、当時薩摩国(鹿児島県)からの持ち出しが禁止されていたサツマイモを入手し、栽培を奨励した。サツマイモは石見国から島根県北東の島根半島や鳥取県西部の弓ケ浜半島に伝わり、飢餓から多くの住民を救ったとされている。これが「いも代官」の由来だ。

 平左衛門の大森代官の在任期間は2年だったが、死後、功績をたたえて各地に碑が建てられた。

住民が建立

 ただ、その広がり方が尋常ではない。たとえば地元の島根県。平左衛門をまつる井戸神社(大田市大森町)の境内には市内にある平左衛門の碑を紹介する看板があるが、そこには市内だけで約100基もの所在が記されている。

 さらに島根県だけにとどまらず、鳥取県、広島県、岡山県へと拡大。建てられた年代も江戸時代から平成までと幅広い。大田市文化協会は「食糧難の時代に恩を再確認して石碑を建てる動きが広がったのではないか」と推測する。碑の台石の多くに住民が力を合わせて建てたことを示す「當村中」の文字が刻まれているのも特徴という。

 一方、その碑の数は「全国に100基以上」「たくさんある」といわれながら長く判然としなかった。そこに立ち上がったのが、ある農家の男性だった。

ある農家の男性の思い

 各地にある平左衛門の碑を調査したのは、大田市内で農業を営んでいた故・宮本豊さん(享年81)。昭和50年から15年以上をかけて1人で調べた。

 市文化協会によると、宮本さんは、自宅近くの寺の無縁墓の一角に、傷みが激しい平左衛門の碑の塔身があるのに心を痛め、「誰かが調べないと碑がなくなってしまう」と行動に移した。

 各地の図書館や公民館、資料館などで文献を調べて碑の所在地を確認。農閑期を利用して一基一基を訪ね、写真を撮影したり、刻まれた文字や寸法などを記録したりした。管理されていない碑を見つけると、周辺の草刈りもした。

 宮本さんの調査で明らかになった碑の総数は530基。うち現地調査した碑は465基になる。

碑の全容解明へ

 今回の市文化協会の調査は宮本さんの調査を補完し、全容解明につなげるのが狙いだ。

 NPO法人石見銀山協働会議(大田市)の補助金を活用。今年5月、同市を除いた中国地方の全106市町村と県内の寺院、神社の計1287カ所に文書を送付し、情報提供を求めた。

 7月末までに回答があったのは、80自治体と、寺院・神社が564カ所。写真や地図を同封した回答もあった。同協会ではこれまでに計493基を確認していたが、新たに22基の存在が分かった。

 この過程でもう一つ判明したのが、宮本さんの調査の正確さ。調査漏れはほとんどなく、完璧に近いことを裏付ける結果になったという。同協会の石賀了会長は「情報がない中、あらゆる手を尽くして調査されたと思う。頭が下がる」と話す。

 碑は、建ててから100年以上が経過したものが多く、老朽化が進む。文字の記載がなく、口頭でのみ平左衛門の碑と伝わっているものもあり、記録しないと将来、誰のものか分からなくなる恐れがあるという。

 今後は調査結果を報告書にまとめる一方、個票に記録する作業を進める。

 「井戸さんはもちろん、碑を通して、功績を伝えようとした先人たちも立派」と石賀会長。「サツマイモのおかげで祖先が命をつなげて今があることを、若い人たちに伝えたい」と話している。

 https://www.sankei.com/premium/news/200817/prm2008170005-n1.html
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