mixiユーザー(id:5138718)

2020年08月05日01:40

35 view

8月5日が忌日である人々

1593年(文禄2年)、堺の商人、茶人の今井宗久が73歳で死去。祖は近江源氏佐々木氏で、近江国高島郡今井市城を領したので、今井氏と称したということです。泉州・堺に出て納屋宗次の居宅に身を寄せ、武野紹鴎に茶を学びます。やがて紹鴎の女婿となり、家財茶器などをことごとく譲り受けました(のちにこの遺産を巡って武野宗瓦と争い勝利しました)。天文23年(1554年)には大徳寺塔頭大僊院に170貫を寄進しています。初めは当時軍需品としての需要があった鹿皮などの皮製品(甲冑製造などに用いる)の販売を扱っており、それによって財をなし、各地の戦国大名とのつながりを深めていきました。将軍・足利義昭にも茶湯をもって近侍し、織田信長の堺に対する矢銭徴課に当たっては、即座にこれに応じました。永禄11年(1568年)10月、上洛した信長と摂津西成郡芥川で相見え、名物・松島の葉茶壺や紹鴎茄子などを献上しました。元亀元年(1570年)には長谷川宗仁とともに生野銀山などの但馬銀山の支配を任せられます。また、代官領に河内鋳物師ら吹屋(鍛冶屋)を集め、鉄砲や火薬製造にも携わりました。これらにより、会合衆の中でも抜きん出た存在として堺での立場を確立し、信長の天下統一を側面から支えました。また、茶人としても千利休、津田宗及とともに信長の茶頭を務めました。信長の死後には羽柴秀吉(豊臣秀吉)にも仕え、堺の万代屋宗安、住吉屋宗無(山岡宗無)とともに御咄衆を務めました。また茶頭として天正15年(1587年)に秀吉が主催した聚楽第落成の交歓茶事北野大茶湯にも協力をし、所蔵茶器が第4位を占めました。しかし、秀吉は宗久よりも新興の薬種商・小西隆佐や千利休らを重用したため、信長時代に浴したほどの地位ではなかったと考えられています。著作に茶会記録の『今井宗久茶湯書抜』や『今井宗久日記』など。
1895年、ドイツの経済学者、哲学者のフリードリヒ・エンゲルスが意識不明の危篤状態となっていました。22時30分ごろ、エンゲルスの脈は途切れてロンドンで死去。74歳。盟友であるカール・マルクスと協力して科学的社会主義の世界観を構築し、労働者階級の歴史的使命を明らかにしました。マルクスを公私にわたり支え、世界の労働運動、革命運動、共産主義運動の発展に指導的な役割を果たしました。『共産党宣言』をばめ、マルクスの著作とされるものの大部分もエンゲルスによる再構成、手直しをされています。
1962年、女優のマリリン・モンローがロサンゼルスの自宅でバルビタールの過剰投与により36歳で死亡。モンローの死には、陰謀論が提唱されています。典型的な「ブロンド・ボムシェル」("Blonde bombshell", 「金髪美女」)」役を演じたことで有名な彼女は、1950年代で最も人気のあるセックスシンボルの1人であり、セクシャリティに対する時代の態度を象徴していました。彼女は1962年に予期せぬ死を迎えるまで、わずか10年ほどの花形役者でしたが、彼女の映画は2億ドルの収入を得ました。彼女は引き続き大衆文化のアイコンとみなされています。1962年5月19日、マディソン・スクエア・ガーデンで行われたジョン・F・ケネディ大統領誕生パーティで歌った「Happy Birthday,Mr.President(ハッピーバースデー・ミスタープレジデント)」は映像も残されており、有名です。記者の「夜は何を着て寝るのか」との質問に「シャネルの5番よ」(裸で寝るの意)と答えたエピソードはあまりにも有名です。
1983年、俳人の中村草田男が急性肺炎のため東京都世田谷区北烏山の病院で死去。82歳没。本名清一郎(せいいちろう)。東京帝国大学国文科卒。高浜虚子に師事、「ホトトギス」で客観写生を学びつつ、ニーチェなどの西洋思想から影響を受け、生活や人間性に根ざした句を模索。石田波郷、加藤楸邨らとともに人間探求派と呼ばれました。「萬緑」を創刊・主宰。戦後は第二芸術論争をはじめとして様々な俳句論争で主導的な役割をもちました。忌日は「草田男忌」として季語。
1984年、イギリスの俳優、リチャード・バートンがジュネーヴ郊外の自宅で脳溢血により倒れ、市内の病院に搬送されましたが帰らぬ人となりました。本名はRichard Walter Jenkins Jr.。1949年に映画デビュー、映画で共演した女優シビル・ウィリアムズと結婚しました。同年、クリストファー・フライ作の『The Lady's Not For Burning』での演技が絶賛される。これがきっかけとなって1952年にはハリウッドに招かれ、『謎の佳人レイチェル』でオリヴィア・デ・ハヴィランドと共演、アカデミー助演男優賞にノミネートされます。舞台ではオールド・ヴィク座の『ハムレット』『オセロ』やブロードウェイのミュージカル『キャメロット』などに主演、英米の垣根を越えて活躍、特に『キャメロット』では1961年のトニー賞ミュージカル部門の俳優賞を受賞しました。映画では『聖衣』『アレキサンダー大王』『北海の果て』『史上最大の作戦』などの大作や、『寒い国から帰ったスパイ』や『暗殺者のメロディ』などに出演。しかし『謎の佳人レイチェル』を初めアカデミー賞に計7回もノミネートされたものの、一度も受賞はしませんでした。1963年のマーク・アントニーに扮した『クレオパトラ』で共演したクレオパトラ役のエリザベス・テイラーと恋が芽生え、スキャンダルとなりました。その後ウィリアムズと離婚し、一方エディ・フィッシャーと別れたテイラーと結婚、その後は夫婦して、『予期せぬ出来事』『いそしぎ』『バージニア・ウルフなんかこわくない』『じゃじゃ馬ならし』『悪のたのしみ』『危険な航路』『夕なぎ』で共演、しかしバートンがアルコール使用障害にかかり、1973年にテレビ映画『離婚』に夫婦共演中に本当に二人の離婚が取り沙汰されるようになり、ついに翌年離婚しました。その後1975年10月10日に二人は再婚しますが、翌年、再び離婚します。1983年のブロードウェイの舞台が二人の最後の共演となりました。1966年にテイラーとの関係を綴った本を出版しています。2000年に発売されたテイラーの伝記の中で、俳優のローレンス・オリヴィエとバートンとの同性愛関係について触れられていますが、バートンの遺族はその事を否定しています。
1987年、フランス文学者、文芸評論家、小説家の澁澤龍彦が東京都港区の東京慈恵会医科大学附属病院の病床で読書中に頚動脈瘤の破裂により死去、59歳没。かの渋沢栄一とは遠縁にあたります。東京大学修士課程に進みましたが肺結核を病み就職への道が絶たれます。1954年、白水社で最初の訳書『大跨びらき』(ジャン・コクトー)を上梓。1955年には友人の出口裕弘や野澤協、小笠原豊樹たちと同人誌「ジャンル」を結成、『撲滅の賦』『エピクロスの肋骨』などの小説を書きました。1961年、猥褻(わいせつ)文書販売および同所持の容疑で、現代思潮社社長石井恭二と共に在宅起訴され、以後9年間に渡りいわゆる「悪徳の栄え事件」の被告人となりました。埴谷雄高・遠藤周作・白井健三郎が特別弁護人、大岡昇平・吉本隆明・大江健三郎・奥野健男・栗田勇・森本和夫などが弁護側証人となりました。澁澤はこの裁判について「勝敗は問題にせず、一つのお祭り騒ぎとして、なるべくおもしろくやる」との方針を立てていたため最初から真剣に争う気がなく、「寝坊した」と称して裁判に遅刻したことまであったため、弁護側から怒りを買うことがありました。1962年に東京地裁で無罪判決が出ましたが検事控訴で、東京高裁から最高裁まで争った末に1969年に澁澤側の有罪が確定し、7万円の罰金刑を受けました。1970年9月に、初めての欧州旅行に出たのをきっかけに、1970年代から1980年代にかけ、龍子夫人を伴い、何度か海外旅行をしました。なお初めての海外への出発の際、三島由紀夫が羽田空港に見送りに来たのが最後の面会となりました。また作家嵐山光三郎は、平凡社の編集者時代に澁澤と中近東旅行に同伴しています。また国内旅行の記録も『澁澤龍彥の古寺巡礼』(図版での小著、平凡社)など、複数で紹介されています。澁澤は幼い頃から喉が弱く、知人の間では特徴的なかすれ声で知られていましたが、近所の医師の誤診から下咽頭癌の発見が遅れたため、1986年に声帯を切除し、声を失いました。
1991年、経営者の本田宗一郎が東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院で肝不全のため死去、84歳没。輸送用機器メーカー本田技研工業(通称:ホンダ)の創業者。
2002年、俳優の御木本伸介が肺癌のため都内の病院で死去。71歳没。本名は鈴木脩一。大学在学中に文学座研究生となり、まず新劇を学びました。かねて知遇を得ていた阿部豊監督の「戦艦大和」に端役で出演。1955年、大学卒業と同時に阿部監督の助言で新東宝に入社。映画「風流交番日記」でデビュー。それまでの鈴木伸也を阿部監督の命名で御木本伸介と改めました。新東宝解散後の1962年にフリーとなり、テレビドラマを中心に活動。特に、講道館柔道をテーマにした矢野小五郎役は適役になりました。任侠映画にも多く出演しています。時代劇では悪役が多く家老、黒幕役で『暴れん坊将軍』、『銭形平次』、『遠山の金さん』、『必殺シリーズ』などに度々出演。『水戸黄門』では善人役がほとんどでした。時代劇全般で善人役を演じることも少なくありませんでした。善人に見せかけた悪人役が割と多いのも持ち味の一つ。舞台では萬屋錦之介公演を中心に要となる脇役で活躍しました。江見俊太郎、遠藤太津朗らと並ぶ名脇役でした。テレビドラマ『鬼平犯科帳』では、萬屋錦之介版と中村吉右衛門版での与力・天野甚造役でレギュラー出演、『特捜最前線』では警察庁刑事局長・大江喜一郎役で準レギュラー出演しました。そのほか、『お耳役秘帳』で同心の志波京之介役や、『暁に斬る!』で小さな飲み屋を営む夢助役、『長崎犯科帳』で与力・三島与五郎役など、時代劇などでレギュラー出演することもよくあります。また『坊ちゃん』、『柔道一代』や大島渚監督の『アジアの曙』などに主演しました。
2011年、タレント、司会者、放送作家の前田武彦が肺炎のため東京都内の病院で死去。82歳没。愛称はマエタケ。1960年代、それまで台本を読み上げる形式が一般的だった放送司会に「フリートーク」、「楽屋オチ」、「世間話」といった手法を持ち込み、最盛期にはその毒舌と絶妙な話術から「フリートークの天才」と呼ばれました。自称「あだ名の名人」として、共に司会を務めていた芳村真理を始め、スタッフや出演歌手に数多くにニックネームを付けました。1969年11月、それまでの司会者・立川談志の降板を受け、談志の推薦によりテレビの演芸番組『笑点』の司会に就任、翌年12月まで務めました。テレビではたいへんな売れっ子で、露出度はナンバーワンでしたが、思想的には左派であり、自らが司会するテレビ番組『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ)で日本共産党の候補が選挙で当選したことを礼賛したことから、以後10年近くのあいだテレビ業界から干されたこともあります。前田は司会や脚本家のほか、作詞家として、平井和正原作のアニメ『エイトマン』の主題歌の作詞(萩原哲晶作曲、克美しげる歌唱)もしている。
2012年、元衆議院議員、タレントの浜田幸一が急性心不全のため富津市大堀の自宅で死去。83歳没。自由民主党の衆議院議員として通算7回の当選に及び、衆議院予算委員長、自由民主党広報委員長、自由民主党副幹事長などを歴任しましたが、国務大臣の任命経験が得られないまま、1993年(平成5年)に政界を引退しました。「ハマコー」の愛称で知られ、また、「国会の暴れん坊」「政界の暴れん坊」の異名をもちます。政界引退後は「政治活動家」と自称していたほか、テレビ番組 「ビートたけしのTVタックル」(テレビ朝日)では、「悪党党幹事長」を名乗っていました。
2015年、俳優、お笑い芸人の花紀京が脳腫瘍の摘出手術を受け、療養中だった2003年5月に自宅で入浴中、低酸素脳症を発症して、事実上の活動休止状態となりました。2015年8月5日午後7時半すぎ、肺炎により入院先の大阪市内の病院で死去。78歳没(享年79)。生前はよしもとクリエイティブ・エージェンシーに所属し、盟友の岡八朗と共に吉本新喜劇の二大巨星と呼ばれ、新喜劇の黄金時代を築き長きに渡って君臨しました。本名は石田京三(いしだ きょうぞう)。少年時代は笑芸に興味がなく、中学時代まで、父親が喜劇人・横山エンタツであることを知らなかったそうです。関西大学入学後の1958年、麻雀仲間だった花登筺に弟子入りし、内海重典、大村準一らの指導を受け、OSミュージックホールにおける寸劇でデビュー。商店主、町工場主、工員、駐在、土木作業員といった庶民的な役を中心に、怪しげな正体不明人物(最終的には間抜けな犯罪者だったり逆に刑事だったりする)も得意としました。とにかく一発ギャグをほとんど持たず、観客を笑わせるのが特徴。1963年には早くも吉本新喜劇の座長に抜擢され、岡八郎、原哲男、桑原和男らとの独特のボケ・ツッコミをくりひろげるコンビ芸で活躍しました。同時に『てなもんや三度笠』などのテレビ番組にも出演しました。岡とはのちに、漫才ブームの時期にテレビ番組でコンビを組んで漫才をしたこともありました。1989年、「新喜劇やめよっカナ!?キャンペーン」を開始した吉本新喜劇を退団。その後は多数の映画やテレビドラマに出演し、新境地を開拓しました。2001年、ダウンタウン、東野幸治、ココリコ、ロンドンブーツ1号2号、山田花子、藤井隆、間寛平と期間限定ユニット「Re:Japan」を結成し、第52回NHK紅白歌合戦に出場しました。

本日の忌日もこれきりぃ〜!
11 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2020年08月>
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031