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2020年06月19日10:49

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"育てる"とセットの"諦める"

よく"創る"ことや"創る人"への憧れを語ってきましたが、今はもっぱら"育てる"あるいは"お世話する"人になっているワタクシです。それはそれで、とても有難いことではあります。ここに自分が居てもいいのだと思わせてもらえますから(^^;。

"創る"ことと"育てる"ことには、根本的な違いがあります。誰もが承知しているように、"育てる"ということの役割は、あくまでもサポートですから。育つものにとって最適な環境を整える、育つものが最大限に活きるように手助けする、育つものが幸せを感じられるように支える・・・当たり前ですが、育つものありきです。

自分の美意識や価値観や好き嫌いで、この方が良いと思うとか、こうであって欲しいと思うことがあっても、それを押し付けては"育てるもの"として失格です。自分の気持ちは押さえねばなりません、時には捨て去らねばなりません・・・とにかくまず"育つもの"ありきです。

しかも、育つものと育てるものは、決して運命を共には出来ません。どこまでいっても別の存在ですから、出会いを得ても必ず別れを迎える・・・ことになります。どんなに愛おしく思っていても、"育てるもの"は"育つもの"とは、決して完全に重なり合うことはできません。

今、ニャンコたちと一緒に暮らし・・・花を育て・・・"育てる"ということに自分が支えられ、ささやかな喜びをもらっていますが・・・いつも思います・・・いつどうなるか分からない・・・何が起こるかわからない・・・そしてそれは、ほとんどの場合、わたしにはどうしようもない・・・それが、わたしの望まぬことであったとしても、ただ受け入れて諦めるしかない・・・

もちろん、自分自身にも不本意なことは降りかかってきます。でも、その時感じる悔しさは、"育つもの"にふりかかる不本意なことの前に感じる無力感とは比べ物になりません。

そういう意味で、"育てる"ということには、必ず"諦めること"の覚悟が求められる気がします。決して自分の思うようにはしない、いつか必ず失う・・・その覚悟とセットで"育てる"があるように思います。

と、書きながら・・・幼児教育に関わる施設と珈琲屋を同時に営んでいた時、珈琲屋の常連になってくださっていた学校の先生との会話を思い出しました。「保母さんも含め、教育に携わるお仕事をしてらっしゃる先生方が、生徒たちの心に撒いた種は、お互いが出会わなくなってから芽を出す。だから、自分が何をしたか、何が出来たかを確認できることは非常に稀だ。種をまきながら、花が咲き実がなるのを見ることが出来ない、ましてや収穫に関わることは絶対にない仕事だけど、先生がまいた種は、必ずどこか芽を出していますよ」って。

そう話しながら、わたしは自分の小学校四年生の時の担任のT先生と、小学五年&六年を担任してくださったE先生のことを思っていました。先生方が私の人生に与えてくださった多くの素晴らしい影響・・・感謝してもしきれません・・・でも、その気持ちを先生方に伝えたことはない。T先生は若くして亡くなってしまったので、お礼を言う機会を失してしまいましたが、E先生はどうしていらっしゃるだろうと、今も時々ネット検索をしてみるのですが、何もヒットしません・・・"育つ"側も、育てる"ものと、ずっと一緒に居られるわけではない・・・育ててもらっている時は、そんなことを考えもしませんが・・・それが"育つ"と"育てる"の関係なんでしょうね。

写真は、数年前の母の日に、母に贈った花鉢の花です。とても好い香りのする花で、何年もずっと、母の部屋で香ってくれていたのですが、今年の冬、葉の色が薄くなりはじめ、みるみる元気がなくなってきました。それで、春を待って、母の部屋から見える場所に地植えしました。ずいぶん弱っていたので、無理かなって思っていたのですが・・・色が薄くなった葉は全て落ちて、その後に新芽がどんどん出てきて、あっというまに花が咲き始めました。再生あるいは復活を、この目で見た気がしました(^^)。

色々と花を育てていますが、繊細な気遣いができない質で、病気を防げなかったり、枯れさせてしまったりすることが少なくありません・・・とても申し訳ないです。ニャンコたちも、どんどん年をとり、てんちゃんは、もう10歳です。どうしても先のことを考えて不安になってしまいます。それで、こんなことをつらつらと書いてしまったのでした(^^;。
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