犀川創平。
僕がこの名前と出会ったのは高校生の頃だった。
それまで小説などとは無縁のバスケ少年だった僕が、初めて欠かさず買い続けた小説に出てくる主人公だ。
その話ではたくさんの人が死ぬのだが、悲しみを独特な観点で丁寧に紡いでいくお話が大好きだった。
犀川創平はそんなお話の中に登場する無駄のない思考と無駄を楽しむ余裕が素敵な親父くさいくらいの浮世離れした助教授で、ちょうどリングに出ていた頃の真田広之さんのようなイメージだった。
そんな素敵なキャラクターを、数年前、綾野剛さんが演じられていた。
ちょっとイメージとは違っていたが、ドラマになった事が純粋に嬉しかった。
毎回欠かさず見ていたし、小説ももう一度読み直してみたりもした。
でも、なんだかしっくりこない。
そこにいる犀川創平は、僕の犀川創平ではないのだ。
犀川創平ではないのであれば、それはきっと僕が読んできた小説とは別物だ。
もし、僕が生きている僕が僕ではないとしたらどうだろう。
それを正しいと仮定したら、一体この世界は何なのだろうか。
おそらく正しいリズムで、それぞれが一生懸命回転している。
コロコロと、コロコロと、
おそらく正しいリズムで、それぞれが明日に向かって回転している。
コロコロと、コロコロと、
転がり続ける事自体が、この世界なのかもしれない。
転がるのを止めたら明日はこないかもしれない。
であれば、来るはずの明日には誰がいるのだろう。
それはきっと僕が生きてきた僕とは別物だ。
明日も僕はいるけれど、明日には僕はもういない。
どろどろと溶け出すような夜だ。
どろどろから飛び跳ねたい夜だ。
極楽鳥花の香りを買おう。
僕のいる明日に連れて行ってくれるかもしれない。
どろどろと溶け切っていた夜が懐かしい。
今日はできるだけ丁寧に眠ろう。
一歩、一歩、しっかりと踏み込んで
できるだけ高く眠ろう。
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