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2020年03月28日14:17

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底辺からのまなざし

マイミクのえんだんじさんの最新著作『若い女性たちに告ぐ〜えんだんじのブログ特選集』を引き続き読んでいる。
このての保守論壇の文章を読んでいて、ふと、ある方を思い出した。
もう12年くらい前になるかな。とある右翼団体の団長で、本職は住吉会系の五次団体くらいの組の組長である方がやっているブログに何となく行き着き、その文章の面白さから、僕はコメントなどをするようになった。
その方(この後は便宜上、「組長」と表記する)は、かなり気さくな方で、メール交換などもするようになったのだが、実録系雑誌の『実話時報』にも連載を持たれていた。そういう関係で、その時期、僕はこのヤクザ情報誌である『実話時報』を定期購読していた。
なお、暴力団排除条例の後は、この『実話時報』は単なる芸能実録雑誌(『アサヒ芸能』みたいなもの)になってしまいすっかり面白くなくなってしまったのだが、当時連載していた組長のコラムはかなり面白かったし、そのての面白い記事がいっぱいあって毎月の販売日が楽しみだった。
組長は当時、55歳くらいだったので今は70歳近くになられたのかな。僕がブログ訪問するようになってから、2,3年でブログは閉鎖されてしまい、『実話時報』の連載もなくなり、僕との繋がりもそのままフェードアウトしていった。何か事情があったのか、本人が単にやる気がなくなったのかはわからないが、その文才を評価していただけに、残念である。

で、その組長。右翼活動の記事などのアーカイブもあったのだが、本人、右翼を立ち上げたが、何やっていいかよくわからず、とりあえず滝に打たれたりすればそれっぽくみえるかな、と意味もなく滝行をやったりしていて、お茶目だった。
また、何度か服役しており、その間にロス疑惑の三浦和義との交流などもあり、その関係で、出所後は、冤罪撲滅の運動をやったりしている。
右翼活動や、服役中の記事はとてもユーモアに溢れていて、非常に人間愛に溢れている人柄を感じさせ、女性ファンもかなりいた。
結婚も2,3回しているのかな。子供を残して離婚したことについても多少触れている記事もあったが、「私が原因で・・」とか「私が悪くて、妻子には本当に悪いことをした」だとか、言い訳するようなことは一切書いていなかったと思う。
ブログの最期のほうは、こども110番のような、虐待などで不幸な目にあっている子供たちを支援する窓口を始めていた。
実際にネット上での組長しかみていないので、現実はどういう人かはもちろんわからない。が、少なくとも記事を読む限りでは、ヤクザでありながら、そういった弱者を救済するような活動をやっていたし、コメントのやりとりをみても、組長を実際に知っているとおぼしき人のコメントからは、少なくとも人柄の良さは伝わってきた。
不労所得やら凶器準備集合やらで、ヤクザらしい罪での前科はあるが、それを隠すことなくユーモアに溢れた文章で綴っているし、また、弱者に対するまなざしというのか、そういうものがあった。
政治運動の動機も、もちろんヤクザといえば右翼、みたいな単純な図式もあったろうが、記事からは実際に天下国家を憂えていたし、その憂国の志は、大上段から政治的に眺めるのではなく、常に底辺からのまなざしだったのが印象的だった。
これも、ヤクザというマイノリティだからこその帰結なのかもしれない。
また服役中に、出雲神話などの書物を勉強しており、日本文化における知識もそこそこ深いものがあった。

さて、前置きが長くなったが、話題を変える。
僕は、大学で文学部の国文科を選択した。この頃は、哲学や教育学などにも興味があり、どれを選択するか悩んだが、若かりし日の僕は、「日本のこともろくすっぽ知らないのに、海外のことを学んでもなあ・・」という単純な理由で国文科を選んだ。
大学の頃は、西洋の哲学や、ドイツ、フランス文学や、東洋史の授業も「他専攻履修」で受講したし、海外を知った上で比較文化的に日本を知ることも有意義ではあると思うが、結局は僕はそんなに器用ではないので、自国のことを学ぶだけで精一杯だった。
卒論は、上古文学、中世文学、近世文学、近代文学、国語学から選択するのだが、江戸時代の独特の文化爛熟と多様性がとても面白いと思い、近世文学を選択した。
教授の薦めにしたがって、江戸時代の講釈師を卒論のテーマにした。
書きあがった卒論は、講釈師の実態の羅列に終始してしまい、先生に「これじゃあ、国史学の論文ですね・・」と言ったら、先生は「いや、国史じゃこれだけウェットな論文にはならないよ」とおっしゃってくれた。
そういうわけで、国文学の学士として無事卒業できたのだが、日本文学、日本文化にはその後も機会があれば自分なりに勉強し、現在に至っている。
やはり知れば知るほど、わが国の文化は奥深く、まだまだ知りたい、経験したい、と思えるのである。
当時より、日本の古典文学の有名どころについては、あらかた目を通したが、ここ数年では、能や狂言、落語などの芸能にも興味があり、機会をみつけては見聞している。
そこで、感じていることは、「日本の文化は、人間の業を肯定している」。
人間とは、どこかマヌケで欲望に負けてしまったり、狡猾なところがあったり、というところがあるのだが、それを否定せずに、時には悲劇的に、時には笑っちゃうくらいのユーモアで表現する。
落語なんかは、その最たるもので、落語の登場人物は、皆どっかマヌケである。武士だ町人だ、ったって、一皮むけばすぐ欲に負けてしまうような人ばかり登場する。
奇しくも立川談志が、「落語っつーのは人間の業の肯定だからよ」って言っていたのもまさにその通りだと思う。
最近凝っている狂言にしたって、今この時代にみても笑ってしまうほど、毒の効いた笑いを演出する。そういう演目が、600年〜700年にわたって、変わることなくずーっと演じられてきたことが、不変の真実性を物語っていると感じる。
つまり、日本の文化というのは、常に底辺からのまなざしがある。どの国の文化もそういうものなのかもしれないが、僕が知っている範囲では日本の文化は、少なくともそういう要素がある。
この根底に流れる人間の業の肯定=人間の生の肯定こそが、我々が誇るべき日本文化なのではないだろうか。

冒頭で紹介した組長は、失礼ながらどこかマヌケなところがある。
それが故に、人生において失敗もし、苦労もし、そして甘い汁も啜ってきた。そういうのを全部ひっくるめて、ユーモアにして表現するところに、組長の並々ならぬセンスのよさを感じた。
この組長のような人こそが、本当の意味で日本の文化を知っている人だと思うし、そういう人が、まがりなりにも右翼団体を結成し、憂国の士であることが面白い。
仮にも天下国家(?)を考えるとき、常に政治的イデオロギーからの視点しか持たないことは危険極まりないと思っているのだが、それは、不必要で無意味な排他・排斥を生み出すだけだ。政治的イデオロギーによる「上から目線」での批判、ともすれば糾弾は、仮にその人が底辺にいる立場の人であっても、イデオロギーという妄信に支配されて現実をみえなくしてしまうのではなかろうか。
行き過ぎた政治的イデオロギーは、カルト教団などの新興宗教と同じである。
昨今流行の、ネトウヨ、ヘイトスピーチなどもまた、イデオロギー(とも呼べないような妄信。しかもネットにしかないような信憑性に欠けた情報による妄信)のみに凝り固まり、時代の空気に便乗した危険極まりない暴徒でしかない。
そこには、自分の目で見て耳で聞き、自分の頭で思考する、またその発言に責任を持つ、という意志に欠けていて、その結果が、「違った意見」に対する徹底的な排除に繋がっていく。
この社会には、いろんな人がいる。組長のような人もいれば、えんだんじさんのような人もいれば、私のような人もいれば、その分、異なる価値観がある。
いうまでもないことだが、時代や民族や家庭環境や生まれつきの能力などで、それぞれ違う事情を抱えて生きているのである。
そしてまた、その人がその人の人生を生きることにより、意識的にせよ無意識的にせよ、他人に害を加えることもあれば、他人から害を被ることもある。「自分が正しい!」をいくら主張したにせよ、絶対の正義など存在せず、そこには不完全にしかなりえない人間の業があるのではないだろうか?
そういうものを肯定してきた日本人こそが、日本人の誇りであると僕は思っている。
そして、自分も日本人である以上は、そういう生き方をしたい。

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