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2020年02月11日16:44

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令和初の建国記念の日にあたり 東京大学名誉教授・小堀桂一郎

 下記は、2020.2.11 付の 正論 の記事です。

                        記

 改めて本欄から言及する迄(まで)もなく、多くの人が共有の認識としてをられる事であらうが、本年の「建国記念の日」には例年とは少し違ふ特別の意味付けが伴ふ。

 ≪「日本書紀」千三百年の重み≫

 それは、令和への改元が公布され、新帝陛下が一連の皇位継承儀礼を滞りなく済まされての年明けに初めて迎へる記念日であると同時に、本年は『日本書紀』が撰上されて、千三百年の記念年であるといふめぐり合せである。

 これも亦(また)言ふ迄もない事だが、2月11日が建国記念の日と定められた、文献上の根拠はその『日本書紀』にあるからである。

 千三百年の昔、養老4年5月に編纂(へんさん)主幹舎人親王の下で編纂の成つたこの日本最初の国撰史書は、それより8年前の和銅5年に太安万侶が撰上した『古事記』が、口頭で伝誦された皇祖の昔語りの筆記である故に、語り伝へてゐる出来事の叙述に年代が記されてゐない事を意識してゐた。『記』は歴代天皇の崩御の際の宝算と第11代以降は干支での崩御年も入念に記してゐるが、それだけでは東アジア国際社会で広く通用せしむべき普遍性には欠けると考へられた。

 そこで『書紀』では建国紀元以下年代記的体裁を備へておきたいとの要請が生じたのであらう。神武天皇が日向の国から海道東征の途に上られてから8年目、大和の国一帯の平定事業が成つた辛酉(かのととり)の年を、漢土古代の讖緯(しんい)説に基いて大きな変革の生じた年と見立て、その年の正月元日に天皇は橿原の宮で即位されたものと考へた。

 さう考へたのが『書紀』編纂中の事、仮に養老4年だつたとするとその年の元日はグレゴリオ暦の2月17日に当り、立春(これも陽暦2月4日だつたと仮定して)を過ぎて十数日の、日差しもとみに明るくなつてまさしく春の初めを思はせる頃であるから、舎人親王とその周辺の編者達が、国の肇めを神武天皇御即位の年の元日(旧暦)といふ事にしようと考へたのはよくわかる話である。

 そこで当時の暦学の学者達に調べさせてみるとその辛酉の年の元日は干支では庚辰朔(かのえたつさく)の日である事がわかり、『書紀』ではその日付を天皇御即位の日であるとした。

 ≪小学校唱歌「紀元節」を通じ≫

 この二千五百余年を遡(さかのぼ)る辛酉の年の庚辰朔の日は、明治6年の太陽暦採用施行の際、天文局を中心に考証の結果、太陽暦2月11日だつたと算定され、この日が即ち日本国建国の記念日であるとの合意が成立した。

 これは言ひ換へれば日本国紀元元年の元日であるから、記念日制定当時は此を紀元節と呼んだ。即ち民間習俗の中に広く根を張つた履歴の古い祭日ではない。だが明治22年の此の日付で大日本帝国憲法が発布されたので国の祝日としての重味(おもみ)が一枚加はり、更に明治21年に作られた小学校唱歌「紀元節」が26年全国の小学校の奉祝式典で歌はれる事が制度化されたため、立春より1週間後、陽光も更に麗(うらら)かとなつた春の始まりを喜ぶ祝日としての意識がこの唱歌を通じて広く定着して行つた。

 この歌は伊澤修二作曲の旋律が如何(いか)にも品格の高い荘重な響きであるのに加へて、高崎正風(まさかぜ)作の4聯の歌詞が、漢字語を少くし、平易な和語を多用した親しみ深い内容であるため、合唱する児童達は特に先生の解説を聞かなくても自然に<国のもとゐ>が定まつた遙か昔の早春の日を嬉しくも尊くも思ふ感性を素直に身につけていつたものと思はれる。

 戦前の四大節の一としての紀元節は、昭和20年の対米敗戦、国土の被占領状態への陥落により、米軍の日本国体破壊政策の指標の一として23年に廃止を命ぜられ、学校等公けの祝賀行事としては長い中断を強ひられた。27年の平和条約発効による主権回復後間もなく、その復活運動が起り、42年から国民の祝日の一としての「建国記念の日」が追加実施された。

 ≪国の基、御柱とは何か≫

 復活運動の初期には、米占領軍による国体破壊情報宣伝工作の余毒もあつて、祝日の日付についての異論も出てゐたが、やはり2月11日を支持する輿論(よろん)が圧倒的に強かつた。それは春の始まりを国の肇めに重ね合せてことほぐ自然な感性に加へて、紀元節唱歌の与へる情緒的な感化力が大きく作用してゐた故ではないかと思はれる。

 折から我等現代人は改めて、我が国の基(もとい)が定められた悠遠の昔の事蹟と、国の御柱(みはしら)が立てられ、それが二千年来揺ぎなく国民の安寧を統べ、支へてゐるといふ歴史伝統に深く眼を注いでみよ、との時代の要請を受けてゐる。

 歴史を奪はれた民族は亡び、己の歴史を自ら蔑(ないがし)ろにした国家は皆衰頽(すいたい)の途を辿(たど)つた。中には現実にこの地球上に存在の痕跡すら残す事なく消えて行つた民族や文明もある事も記憶されてゐる。

 民族の、国家の歴史を強く固く保存し、それを次なる子孫の世代に明確な言葉で伝へておく事が喫緊の必要事である。別に難しい作業ではない。手始めに、児童達に紀元節唱歌を歌はせ、憶えさせ、国の基、国の御柱とは何か、と考へさせる事から着手すればよい。

(こぼり けいいちろう)

 https://special.sankei.com/f/seiron/article/20200211/0001.html
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