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2019年12月26日17:14

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死者の書  折口信夫 7


兵部大輔(ひょうぶたいふ)大伴家持は、偶然この噂を、極めて早く耳にした。ちょうど、春分から二日目の朝、朱雀大路を南へ、馬をやって居た。二人ばかりの資人(とねり)が徒歩(かち)で、驚くほどに足早について行く。此は、晋唐の新しい文学の影響を、受け過ぎるほど享(う)け入れた文人かたぎの彼には、数年来珍しくもなくなった癖である。こうして、何処まで行くのだろう。唯、朱雀の並み木の柳の花がほほけて、霞のように飛んで居る。向うには、低い山と、細長い野が、のどかに陽炎(かげろ)うばかりである。資人の一人が、とっとと追いついて来たと思うと、主人の鞍(くら)に顔をおしつける様にして、新しい耳を聞かした。今行きすごうた知り人の口から、聞いたばかりの噂である。
それで、何か――。娘御の行くえは知れた、と言うのか。
はい……。いいえ。何分、その男がとり急いで居りまして。
この間抜け。話はもっと上手に聴くものだ。
柔らかく叱った。そこへ今(も)一人の伴(とも)が、追いついて来た。息をきらしている。
ふん。汝(わけ)は聞き出したね。南家(なんけ)の嬢子(おとめ)は、どうなった――。
出端(でばな)に油かけられた資人は、表情に隠さず心の中を表した此頃の人の、自由な咄(はな)し方で、まともに鼻を蠢(うごめか)して語った。
当麻(たぎま)の邑(むら)まで、おととい夜(よ)の中に行って居たこと、寺からは、昨日午後横佩墻内(かきつ)へ知らせが届いたこと其外には、何も聞きこむ間のなかったことまで。家持の聯想(れんそう)は、環(わ)のように繋(つなが)って、暫らくは馬の上から見る、街路も、人通りも、唯、物として通り過ぎるだけであった。
南家で持って居た藤原の氏上(うじのかみ)職が、兄の家から、弟仲麻呂―押勝―の方へ移ろうとしている。来年か、再来年(さらいねん)の枚岡祭りに、参向する氏人の長者は、自然かの大師のほか、人がなくなって居る。恵美家からは、嫡子久須麻呂の為、自分の家の第一嬢子(だいいちじょうし)をくれとせがまれて居る。先日も、久須麻呂の名の歌が届き、自分の方でも、娘に代って返し歌を作って遣した。今朝も今朝、又折り返して、男からの懸想文(けそうぶみ)が、来ていた。
その壻候補(むこがね)の父なる人は、五十になっても、若かった頃の容色に頼む心が失せずにいて、兄の家娘にも執心は持って居るが、如何に何でも、あの郎女だけには、とり次げないで居る。此は、横佩家へも出入りし、大伴家へも初中終(しょっちゅう)来る古刀自(ふるとじ)の、人のわるい内証話であった。其を聞いて後、家持自身も、何だか好奇心に似たものが、どうかすると頭を擡(もた)げて来て困った。仲麻呂は今年、五十を出ている。其から見れば、ひとまわりも若いおれなどは、思い出にもう一度、此匂やかな貌花(かおばな)を、垣内(かきつ)の坪苑(つぼ)に移せぬ限りはない。こんな当時の男が、皆持った心おどりに、はなやいだ、明るい気がした。
だが併し、あの郎女は、藤原四家の系統(すじ)で一番、神(かん)さびたたちを持って生れた、と謂(い)われる娘御である。今、枚岡の御神に仕えて居る斎(いつ)き姫(ひめ)の罷(や)める時が来ると、あの嬢子(おとめ)が替って立つ筈だ。其で、貴い所からのお召しにも応じかねて居るのだ。……結局、誰も彼も、あきらめねばならぬ時が来るのだ。神の物は、神の物――。横佩家の娘御は、神の手に落ちつくのだろう。
ほのかな感傷が、家持の心を浄(きよ)めて過ぎた。おれは、どうもあきらめが、よ過ぎる。十(とお)を出たばかりの幼さで、母は死に、父は疾(や)んで居る太宰府へ降(くだ)って、夙(はや)くから、海の彼方(あなた)の作り物語りや、唐詩(もろこしうた)のおかしさを知り初(そ)めたのが、病みつきになったのだ。死んだ父も、そうした物は、或は、おれよりも嗜(す)きだったかも知れぬほどだが、もっと物に執著(しゅうじゃく)が深かった。現に、大伴の家の行く末の事なども、父はあれまで、心を悩まして居た。おれも考えれば、たまらなくなって来る。其で、氏人を集めて喩(さと)したり、歌を作って訓諭して見たりする。だがそうした後の気持ちの爽(さわ)やかさは、どうしたことだ。洗い去った様に、心が、すっとしてしまうのだった。まるで、初めから家の事など考えて居なかった、とおなじすがすがしい心になってしまう。
あきらめと言う事を、知らなかった人ばかりではないか。……昔物語りに語られる神でも、人でも、傑(すぐ)れた、と伝えられる限りの方々は――。それに、おれはどうしてこうだろう。
家持の心は併し、こんなに悔恨に似た心持ちに沈んで居るに繋(つなが)らず、段々気にかかるものが、薄らぎ出して来ている。
ほう これは、京極(きょうはて)まで来た。
朱雀大路も、ここまで来ると、縦横に通る地割りの太い路筋ばかりが、白々として居て、どの区画にも区画にも、家は建って居ない。去年の草の立ち枯れたのと、今年生えて稍(やや)茎を立て初めたのとがまじりあって、屋敷地から喰(は)み出し、道の上までも延びて居る。
こんな家が――。
驚いたことは、そんな草原の中に、唯一つ大きな構えの家が、建ちかかって居る。遅い朝を、もう余程、今日の為事(しごと)に這入(はい)ったらしい木の道の者たちが、骨組みばかりの家の中で、立ちはたらいて居るのが見える。家の建たぬ前に、既に屋敷廻りの地形(じぎょう)が出来て、見た目にもさっぱりと、垣をとり廻して居る。土を積んで、石に代えた垣、此頃言い出した築土垣(つきひじがき)というのは、此だな、と思って、じっと目をつけて居た。見る見る、そうした新しい好尚(このみ)のおもしろさが、家持の心を奪うてしまった。
築土垣の処々に、きりあけた口があって、其に、門が出来て居た。そうして、其処から、頻(しき)りに人が繋っては出て来て、石を曳(ひ)く。木を搬(も)つ。土を搬(はこ)び入れる。重苦しい石城(しき)。懐しい昔構え。今も、家持のなくなしたくなく考えている屋敷廻りの石垣が、思うてもたまらぬ重圧となって、彼の胸に、もたれかかって来るのを感じた。
おれには、だが、この築土垣を択(と)ることが出来ぬ。
家持の乗馬(じょうめ)は再、憂鬱(ゆううつ)に閉された主人を背に、引き返して、五条まで上って来た。此辺から、右京の方へ折れこんで、坊角(まちかど)を廻りくねりして行く様子は、此主人に馴れた資人たちにも、胸の測られぬ気を起させた。二人は、時々顔を見合せ、目くばせをしながら尚、了解が出来ぬ、と言うような表情を交しかわし、馬の後を走って行く。
こんなにも、変って居たのかねえ。
ある坊角に来た時、馬をぴたと止めて、独り言のように言った。
……旧草(ふるくさ)に 新草(にひくさ)まじり、生ひば 生ふるかに――だな。
近頃見つけた歌※(「にんべん+舞」、第4水準2-3-4)所(かぶしょ)の古記録「東歌(あずまうた)」の中に見た一首がふと、此時、彼の言いたい気持ちを、代作して居てくれていたように、思い出された。
そうだ。「おもしろき野(ぬ)をば 勿(な)焼きそ」だ。此でよいのだ。
けげんな顔を仰(あおむけ)けている伴人(ともびと)らに、柔和な笑顔を向けた。
そうは思わぬか。立ち朽(ぐさ)りになった家の間に、どしどし新しい屋敷が出来て行く。都は何時までも、家は建て詰まぬが、其でもどちらかと謂えば、減るよりも殖えて行っている。此辺は以前、今頃になると、蛙めの、あやまりたい程鳴く田の原が、続いてたもんだ。
仰(おっしゃ)るとおりで御座ります。春は蛙、夏はくちなわ、秋は蝗(いなご)まろ。此辺はとても、歩けたところでは、御座りませんでした。
今一人が言う。
建つ家もたつ家も、この立派さは、まあどうで御座りましょう。其に、どれも此も、此頃急にはやり出した築土垣(つきひじがき)を築きまわしまして。何やら、以前とはすっかり変った処に、参った気が致します。
馬上の主人も、今まで其ばかり考えて居た所であった。だが彼の心は、瞬間明るくなって、先年三形王(みかたのおおきみ)の御殿での宴(うたげ)に誦(くちずさ)んだ即興が、その時よりも、今はっきりと内容を持って、心に浮んで来た。
うつり行く時見る毎に、心疼(いた)く 昔の人し 思ほゆるかも
目をあげると、東の方春日の杜(もり)は、谷陰になって、ここからは見えぬが、御蓋(みかさ)山・高円(たかまど)山一帯、頂が晴れて、すばらしい春日和(はるびより)になって居た。
あきらめがさせるのどけさなのだ、とすぐ気がついた。でも、彼の心のふさぎのむしは迹(あと)を潜めて、唯、まるで今歩いているのが、大日本平城京(おおやまとへいせいけい)の土ではなく、大唐長安の大道の様な錯覚の起って来るのが押えきれなかった。此馬がもっと、毛並みのよい純白の馬で、跨(またが)って居る自身も亦、若々しい二十代の貴公子の気がして来る。神々から引きついで来た、重苦しい家の歴史だの、夥(おびただ)しい数の氏人などから、すっかり截(き)り離されて、自由な空にかけって居る自分ででもあるような、豊かな心持ちが、暫らくは払っても払っても、消えて行かなかった。
おれは若くもなし。第一、海東の大日本人(おおやまとびと)である。おれには、憂鬱(ゆううつ)な家職が、ひしひしと、肩のつまるほどかかって居るのだ。こんなことを考えて見ると、寂しくてはかない気もするが、すぐに其は、自身と関係のないことのように、心は饒(にぎ)わしく和らいで来て、為方がなかった。
おい、汝(わけ)たち。大伴氏上家(うじのかみけ)も、築土垣を引き廻そうかな。
とんでもないことを仰せられます。
二人の声が、おなじ感情から迸(ほとばし)り出た。
年の増した方の資人(とねり)が、切実な胸を告白するように言った。
私どもは、御譜第では御座りません。でも、大伴と言うお名は、御門(みかど)御垣(みかき)と、関係深い称(とな)えだ、と承って居ります。大伴家からして、門垣を今様にする事になって御覧(ごろう)じませ。御一族の末々まで、あなた様をお呪(のろ)い申し上げることでおざりましょう。其どころでは、御座りません。第一、ほかの氏々――大伴家よりも、ぐんと歴史の新しい、人の世になって初まった家々の氏人までが、御一族を蔑(ないがしろ)に致すことになりましょう。
こんな事を言わして置くと、折角澄みかかった心も、又曇って来そうな気がする。家持は忙(あわ)てて、資人の口を緘(と)めた。
うるさいぞ。誰に言う語だと思うて、言うて居るのだ。やめぬか。雑談(じょうだん)だ。雑談を真に受ける奴が、あるものか。
馬はやっぱり、しっとしっとと、歩いて居た。築土垣 築土垣。又、築土垣。こんなに何時の間に、家構えが替って居たのだろう。家持は、なんだか、晩(おそ)かれ早かれ、ありそうな気のする次の都――どうやらこう、もっとおっぴらいた平野の中の新京城にでも、来ているのでないかと言う気が、ふとしかかったのを、危く喰いとめた。
築土垣 築土垣。もう、彼の心は動かなくなった。唯、よいとする気持ちと、よくないと思おうとする意思との間に、気分だけが、あちらへ寄りこちらへよりしているだけであった。
何時の間にか、平群(へぐり)の丘や、色々な塔を持った京西の寺々の見渡される、三条辺の町尻に来て居ることに気がついた。
これはこれは。まだここに、残っていたぞ。
珍しい発見をしたように、彼は馬から身を翻(かえ)しておりた。二人の資人はすぐ、馳(か)け寄って手綱を控えた。
家持は、門と門との間に、細かい柵(さく)をし囲(めぐ)らし、目隠しに枳殻(からたちばな)の叢生(やぶ)を作った家の外構えの一個処に、まだ石城(しき)が可なり広く、人丈にあまる程に築いてあるそばに、近寄って行った。
荒れては居るが、ここは横佩墻内(よこはきかきつ)だ。
そう言って、暫らく息を詰めるようにして、石垣の荒い面を見入って居た。
そうに御座ります。此石城からしてついた名の、横佩墻内だと申しますとかで、せめて一ところだけは、と強いてとり毀(こぼ)たないとか申します。何分、帥(そつ)の殿のお都入りまでは、何としても、此儘(このまま)で置くので御座りましょう。さように、人が申し聞けました。はい。
何時の間にか、三条七坊まで来てしまっていたのである。
おれは、こんな処へ来ようと言う考えはなかったのに――。だが、やっぱり、おれにはまだまだ、若い色好みの心が、失せないで居るぞ。何だか、自分で自分をなだめる様な、反省らしいものが出て来た。
其にしても、静か過ぎるではないか。
さようで。で御座りますが、郎女(いらつめ)のお行くえも知れ、乳母もそちらへ行ったとか、今も人が申しましたから、落ちついたので御座りましょう。
詮索ずきそうな顔をした若い方が、口を出す。
いえ。第一、こんな場合は、騒ぐといけません。騒ぎにつけこんで、悪い魂(たま)や、霊(もの)が、うようよとつめかけて来るもので御座ります。この御館(みたち)も、古いおところだけに、心得のある長老(おとな)の一人や、二人は、難波へも下らずに、留守に居るので御座りましょう。
もうよいよい。では戻ろう。

おとめの閨戸(ねやど)をおとなう風(ふう)は、何も、珍しげのない国中の為来(しきた)りであった。だが其にも、曾(かつ)てはそうした風の、一切行われて居なかったことを、主張する村々があった。何時のほどにか、そうした村が、他村の、別々に守って来た風習と、その古い為来りとをふり替えることになったのだ、と言う。かき上る段になれば、何の雑作もない石城だけれど、あれを大昔からとり廻して居た村と、そうでない村とがあった。こんな風に、しかつめらしい説明をする宿老(とね)たちが、どうかすると居た。多分やはり、語部などの昔語りから、来た話なのであろう。踏み越えても這入(はい)れ相(そう)に見える石垣だが、大昔交された誓いで、目に見えぬ鬼神(もの)から、人間に到るまで、あれが形だけでもある限り、入りこまぬ事になっている。こんな約束が、人と鬼(もの)との間にあって後、村々の人は、石城の中に、ゆったりと棲(す)むことが出来る様になった。そうでない村々では、何者でも、垣を躍り越えて這入って来る。其は、別の何かの為方で、防ぐ外はなかった。祭りの夜でなくても、村なかの男は何の憚(はばか)りなく、垣を踏み越えて処女の蔀戸(しとみど)をほとほとと叩く。石城を囲うた村には、そんなことは、一切なかった。だから、美(くわ)し女(め)の家に、奴隷(やっこ)になって住みこんだ古(いにしえ)の貴(あて)びともあった。娘の父にこき使われて、三年五年、いつか処女に会われよう、と忍び過した、身にしむ恋物語りもあるくらいだ。石城を掘り崩すのは、何処からでも鬼神(もの)に入りこんで来い、と呼びかけるのと同じことだ。京の年よりにもあったし、田舎の村々では、之を言い立てに、ちっとでも、石城を残して置こうと争うた人々が、多かったのである。
そう言う家々では、実例として恐しい証拠を挙げた。卅年も昔、――天平八年厳命が降(くだ)って、何事も命令のはかばかしく行われぬのは、朝臣(ちょうしん)が先って行わぬからである。汝等(みましたち)進んで、石城(しき)を毀(こぼ)って、新京の時世装に叶うた家作りに改めよと、仰せ下された。藤氏四流の如き、今に旧態を易(か)えざるは、最其位に在るを顧みざるものぞ、とお咎(とが)めが降(くだ)った。此時一度、凡(すべて)、石城はとり毀たれたのである。ところが、其と時を同じくして、疱瘡(もがさ)がはやり出した。越えて翌年、益々盛んになって、四月北家を手初めに、京家・南家と、主人から、まず此時疫(じえき)に亡くなって、八月にはとうとう、式家の宇合卿(うまかいきょう)まで仆(たお)れた。家に、防ぐ筈の石城が失せたからだと、天下中の人が騒いだ。其でまた、とり壊した家も、ぼつぼつ旧(もと)に戻したりしたことであった。
こんなすさまじい事も、あって過ぎた夢だ。けれどもまだ、まざまざと人の心に焼きついて離れぬ、現(うつつ)の恐しさであった。
其は其として、昔から家の娘を守った邑々(むらむら)も、段々えたいの知れぬ村の風に感染(かま)けて、忍(しの)び夫(づま)の手に任せ傍題(ほうだい)にしようとしている。そうした求婚(つまどい)の風を伝えなかった氏々の間では、此は、忍び難い流行であった。其でも男たちは、のどかな風俗を喜んで、何とも思わぬようになった。が、家庭の中では、母・妻・乳母(おも)たちが、いまだにいきり立って、そうした風儀になって行く世間を、呪(のろ)いやめなかった。
手近いところで言うても、大伴宿禰(すくね)にせよ。藤原朝臣(あそん)にせよ。そう謂(い)う妻どいの式はなくて、数十代宮廷をめぐって、仕えて来た邑々のあるじの家筋であった。
でも何時か、そうした氏々の間にも、妻迎えの式には、
八千矛の神のみことは、とほ/″\し、高志(こし)の国に、美(くわ)し女(め)をありと聞かして、賢(さか)し女(め)をありと聞(きこ)して……
から謡い起す神語歌(かみがたりうた)を、語部に歌わせる風が、次第にひろまって来るのを、防ぎとめることが出来なくなって居た。
南家(なんけ)の郎女(いらつめ)にも、そう言う妻覓(つまま)ぎ人が――いや人群(ひとむれ)が、とりまいて居た。唯、あの型ばかり取り残された石城の為に、何だか屋敷へ入ることが、物忌み――たぶう――を犯すような危殆(ひあい)な心持ちで、誰も彼も、柵(さく)まで又、門まで来ては、かいまみしてひき還(かえ)すより上の勇気が、出ぬのであった。
通(かよ)わせ文(ぶみ)をおこすだけが、せめてものてだてで、其さえ無事に、姫の手に届いて、見られていると言う、自信を持つ人は、一人としてなかった。事実、大抵、女部屋の老女(とじ)たちが、引ったくって渡させなかった。そうした文のとりつぎをする若人―若女房―を呼びつけて、荒けなく叱って居る事も、度々見かけられた。
其方(おもと)は、この姫様こそ、藤原の氏神にお仕え遊ばす、清らかな常処女(とこおとめ)と申すのだ、と言うことを知らぬのかえ。神の咎(とが)めを憚(はばか)るがええ。宮から恐れ多いお召しがあってすら、ふつにおいらえを申しあげぬのも、それ故だとは考えつかぬげな。やくたい者。とっとと失せたがよい。そんな文とりついだ手を、率川(いざかわ)の一の瀬で浄めて来くさろう。罰(ばち)知らずが……。
こんな風に、わなりつけられた者は、併し、二人や三人ではなかった。横佩家(よこはきけ)の女部屋に住んだり、通うたりしている若人は、一人残らず一度は、経験したことだと謂(い)っても、うそではなかった。
だが、郎女は、ついに一度そんな事のあった様子も、知らされずに来た。
上つ方の郎女が、才(ざえ)をお習い遊ばすと言うことが御座りましょうか。それは近代(ちかつよ)、ずっと下(しも)ざまのおなごの致すことと承ります。父君がどう仰(おっしゃ)ろうとも、父御(ててご)様のお話は御一代。お家の習しは、神さまの御意趣(おむね)、とお思いつかわされませ。
氏の掟(おきて)の前には、氏上(うじのかみ)たる人の考えをすら、否みとおす事もある姥(うば)たちであった。
其老女たちすら、郎女の天稟(てんぴん)には、舌を捲(ま)きはじめて居た。
もう、自身たちの教えることものうなった。
こう思い出したのは、数年も前からである。内に居る、身狭乳母(むさのちおも)・桃花鳥野乳母(つきぬのまま)・波田坂上刀自(はたのさかのえのとじ)、皆故知らぬ喜びの不安から、歎息(たんそく)し続けていた。時々伺いに出る中臣志斐嫗(なかとみのしいのおむな)・三上水凝刀自女(みかみのみずごりのとじめ)なども、来る毎、目を見合せて、ほうっとした顔をする。どうしよう、と相談するような人たちではない。皆無言で、自分等の力の及ばぬ所まで来た、姫の魂の成長にあきれて、目をみはるばかりなのだ。
才を習うなと言うなら、まだ聞きも知らぬこと、教えて賜(たも)れ。
素直な郎女の求めも、姥たちにとっては、骨を刺しとおされるような痛さであった。
何を仰せられまする。以前から、何一つお教えなど申したことがおざりましょうか。目下の者が、目上のお方さまに、お教え申すと言うような考えは、神様がお聞き届けになりません。教える者は目上、ならう者は目下、と此が、神の代からの掟でおざりまする。
志斐嫗の負け色を救う為に、身狭乳母も口を挿(はさ)む。
唯知った事を申し上げるだけ。其を聞きながら、御心がお育ち遊ばす。そう思うて、姥たちも、覚えただけの事は、郎女様のみ魂(たま)を揺(いぶ)る様にして、歌いもし、語りもして参りました。教えたなど仰っては私めらが罰を蒙(こうむ)らなければなりません。
こんな事をくり返して居る間に、刀自たちにも、自分らの恃(たの)む知識に対する、単純な自覚が出て来た。此は一層、郎女の望むままに、才を習した方が、よいのではないか、と言う気が、段々して来たのである。
まことに其為には、ゆくりない事が、幾重にも重って起った。姫の帳台の後から、遠くに居る父の心尽しだったと見えて、二巻の女手(おんなで)の写経らしい物が出て来た。姫にとっては、肉縁はないが、曾祖母(ひおおば)にも当る橘(たちばな)夫人の法華経、又其御胎(おはら)にいらせられる――筋から申せば、大叔母御にもお当り遊ばす、今の皇太后様の楽毅論(がっきろん)。此二つの巻物が、美しい装いで、棚を架いた上に載せてあった。

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