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2019年12月22日20:03

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知ってた?

この間、NHKの「ブラタモリ」姫路城を見ていたら、姫路相は江戸城を模倣して作られていて、「暴れん坊将軍」や「大奥」で映っていた江戸城の天主閣は、実は姫路城のものなのだなんてやっていた。

ところで、じゃあ江戸城の天守閣って、いつの間になくなっていたんだろう、明治維新は西郷と勝で無血開城だよな〜、江戸城が焼けるなんて聞いたことないし。などと今まで思ったこともなかった疑問が湧いて、ネットで検索してみた。

以下、堀口茉純著『江戸はスゴイ』PHP新書よりの長い転載。

明暦三年(1657)に起きた「明暦の大火」で消失するまで、江戸城には天守がありました。それも、全高は60メートルほどもある、日本最大級の大天守でした。江戸幕府は明暦の大火のあと、すぐに江戸城の復興に着手しました。天守ももちろん再建する計画で、土台の普請を加賀藩主・前田綱紀に命じたのです。

前田家は領内から5000人の人夫を動員して、これに着手。御家の威信をかけて瀬戸内から巨大な御影石を運ばせて天守の土台を完成させました。これが、今も東御苑に残る天守台です。あとは、上に天守閣を築くのみだったのですが、これに待ったをかけたのが会津藩主・保科正之でした。保科正之は三代将軍・徳川家光の異母弟にあたる人物で、家光の死後、四代将軍となった甥っ子・家綱の後見人として、幕政において強い発言権を持っていました。

明暦の大火のとき、将軍・家綱はまだ数え十七歳の少年であり、復興の陣頭指揮を執ることは到底無理。実際に采配を振るったのは、保科正之だったのです。特に実用性のない天守に莫大な建設費や維持管理費を割くぐらいだったら、城下の復興・再建にあてようという英断を下したのです。

これは、徳川幕府による全国の統治の方針が、当初の軍事力にものをいわせた「武断政治」から、戦の心配がなくなったために、法や制度の充実によって社会秩序を安定させようという「文治政治」に移行したことを表わすものでした。以降、江戸城に天守が再建されることはありませんでした。当時の人々にとっては、天守のない江戸城こそ、平和を実感する誇らしい風景だったのかもしれませんね。

へ〜、知ってた?僕はこの歳(56だよ、文句あるか!)になるまで知らなかった。調べてみたら娘が使っていた中学校の歴史の教科書には載っていない。僕が持っている石ノ森章太郎著「マンガ日本の歴史」31巻“大開発の時代”にはちゃんと載っていた。なぜ、江戸城には天守閣がないのか、なんてのは日本人の常識としてもっと知られているべき事だと思うけどね。

まさか「暴れん坊将軍」に天守閣が映っちゃってるから、突っ込まれないように今まで伏せていた、なんてことはないよな。

今週の映画は「翔んで埼玉」(監督:武内英樹/出演:二階堂ふみ、GACKT)を観ました。「パタリロ!」で知られる漫画家の魔夜峰央が自らも居を構えていた埼玉県を自虐的に描いたギャグ漫画として発表した「翔んで埼玉」を、二階堂ふみとGACKTの主演で実写映画化。

これだけ下らない映画を真面目に作ったということは評価したい。川を挟んでの出身者合戦には笑わせてもらった。が、どうせやるならもっと突き抜けた、呆れるくらいの下らなさがほしかったな。それから神奈川県民としてはこの陰険な描かれ方はムムムでした。

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