理性に従うならば、近代裁判制度というシステムをよくよく観察してみるならば、被害者や被害者遺族の怨念や復讐心を、刑事裁判で晴らそうというのは、そもそも無理がある、不可能である、としか言えない。
厳密に言えば、刑事裁判が裁いている対象は、人殺しの被告人ではなく、実は検察なのである。
刑事裁判は、検察の起訴が、提出した証拠が、取り調べ内容が、正しいのかどうか?を、裁判官が裁いているのだ。
理念的には、刑事裁判とは「可能な限り、警察および検察による冤罪者を出さない」ための制度なのである。
ある意味、刑事裁判は、裁判官は、容疑者・被告の味方なのだ。
刑事裁判は被告を裁いていない。刑事裁判の主人公は被告ではない。
となれば、恐ろしいことだが、残酷なことだが、非情なことだが、刑事裁判は、被告ですらワキ役なんだから、犯罪被害者やその遺族なんて、居場所すらない。
法廷に、裁判官の座る特別席はある。検察官の座る特別席はある。被告の座る特別席もある。弁護人の座る特別席もある。
しかし、刑事裁判に、犯罪被害者や遺族の座る特別席はない。
少なくとも特別には用意されてない。基本的には、事件に関係ないあかの他人である傍聴人と同じ扱いなのである。
なぜなら、刑事裁判は、犯罪被害者や遺族のためにやってるモノではないからだ。
刑事裁判は「可能な限り、警察および検察による冤罪者を出さない」ための制度であり、ある意味、容疑者・被告の味方なのだ。
つまりは、理屈の上では、刑事裁判は、裁判官は、犯罪被害者や遺族の怨念や復讐心をとことん妨害する、邪魔する、敵ですらある。
刑事裁判は、裁判官は、犯罪被害者や遺族の感情を無視する。
例えば被害者が天涯孤独で復讐を叫ぶ遺族が全くいなくても、被害者自身が「恨みはないよ。裁かないで欲しい」と言っても、 そんなこととは関係なく、警察は逮捕し、検察は起訴し、裁判官は裁く。
刑事裁判は、犯罪被害者や遺族とは原理的に無関係なのである。
刑事裁判は、犯罪被害者や遺族とは無関係なシステムであり、犯罪被害者や遺族の報復感情を満たす道具としては使い勝手が悪い、使えないのだ。
刺身包丁は刃物だが、木材を切って犬小屋を作る道具ではない。
犬小屋を作る刃物は、ノコギリである。
ノコギリは刃物だが、刺身の盛り合わせを作る道具ではない。
刺身を作る刃物は、刺身包丁である。
怨念や復讐心を満たしたい欲望が悪いのではない。
怨みを捨てろなんて言わない。
しかし、刑事裁判は、どこまでいっても、しょせん刑事裁判であって、怨念や復讐心を満たす道具としては、基本的に無理があるのだ。用途や目的がぜんぜん異なる「刃物」なのだ。
だから無理矢理に刑事裁判を使って切り刻むと、バラバラな犬小屋やグチャグチャな刺身にしかならない。満足のいく復讐にはならない。
刑事裁判は怨念や復讐の道具には向かない。
じゃあ、怨念や復讐のための道具とは何か?そもそも存在するのか?
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https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=5886844
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