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2019年10月25日13:54

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基本的人権と義務は表裏一体だ 青山学院大学教授・福井義高

 下記は、2019.10.25 付の 正論 の記事です。

                       記

 ≪誰かの権利は他の人の義務≫

 昨今、なんでもかんでも基本的人権であるという風潮が広がっている。しかし、自らの要求を通すための単なるレトリックではないとしたら、人権すなわち人間の権利の拡大は、人間の義務の拡大を意味することが十分理解されていない。

 権利行使には義務あるいは責任が伴うという、ありふれた主張を繰り返したいわけではない。

 ここで議論の出発点としたいのは、日本の法学界にも大きな影響を与えたオーストリア出身の法哲学者ハンス・ケルゼンの「純粋法学」の前提でもある、誰かの権利はそれ以外の人の義務であるという、権利と義務の論理的関係である。

 たとえば、表現の自由すなわち自分が思うところを好きなように表現する権利は、この表現行為を邪魔してはならないという義務を他人に課している。また、健康で文化的な生活を営む権利は、こうした生活が送れるよう支援する義務を他人に課している。

 この文字通り、権利と義務が表裏一体となった関係は、賛否両論あり得る権利行使責任論とは異なり、どんな場合も成り立つ論理的必然である。

 したがって、米国の哲学者ジョン・サールが指摘しているように、基本的な人間の権利があるとすれば、当然、「基本的人義」とでもいうべき、それに対応する基本的な人間の義務が存在する。

 権利の拡大は、同時に義務の拡大をもたらすことで、我々の自由を制約し、耐え難い状況を引き起こしかねない。それでも、我々が人間として義務を負わねばならない基本的人権があるとしたら、どのようなものがそれにあたるのであろうか。

 ≪消極的義務と積極的義務≫

 義務にはふたつのタイプがある。ひとつは、他人が権利を行使する際、それを邪魔してはならないという消極的義務。もうひとつは、他人の権利行使に対応して、なんらかの行動を強いられる積極的義務である。

 人間として生まれた以上、自らの幸福を自由に追求することにお互い最大限の考慮を払いあうべきであろう。したがって、他人に消極的義務を課すだけの、表現の自由、身体の自由、結社の自由などは、まさしく基本的人権といってよい。

 表現の自由の場合、映画館で偽って「火事だ」と叫ぶことや名誉毀損(きそん)にあたる場合などを除けば、その内容の制限には極力慎重でなければならない。

 表現の自由を最重要視する米国では、言語学者ノーム・チョムスキーをはじめ、リベラルの間でもヘイトスピーチ規制反対の声は根強く、実際、法律で規制されていない。「ことばの暴力」というけれども、他人に石を投げつけるのと不愉快な言葉を投げつけるのは異質の行為である。

 好きなものを食べる自由と異なり、なぜ好きなことを表現する自由が基本的人権として強調されるのか。それは、食べる自由が侵害される危険性はまずない一方、表現する自由が侵害される危険性は常に存在するからである。

 一方、積極的義務を他人に課す基本的人権を想定することは難しい。積極的義務を果たすには、おカネがかかる。国家の義務と言ったところで、国家は打ち出の小槌(づち)ではなく、個人から強制的に徴収した税金を配分しているにすぎない。

 たとえば、健康で文化的な生活を営む権利が基本的人権だとすれば、日本国民に限定されず、日本在住か否かを問わず人間であれば誰でも行使できることになる。その財政負担は耐えがたいというより不可能である。

 ≪おカネが必要な権利は≫

 積極的義務すなわち、おカネが必要な権利は、人間ではなく日本国民としての権利に限られるというしかない。もちろん、たとえば外国人を生活保護の対象にするなといっているわけではない。しかし、それは外国人にとって権利ではなく政策的配慮である。

 そもそも税金は少ない方が望ましいし、有無を言わさず集められた税金の使い道に関しては、民意が反映されなければならない。国民としての権利であっても、積極的義務が必要なものには、抑制的であることが求められる。

 愛知県の芸術祭「あいちトリエンナーレ」の展示に関して言えば、有志が民間施設で開催するのであれば、たとえその内容が多くの人にとって不愉快なものであっても、許容する義務がある。

 ただし、表現の自由という基本的人権が要求するのは、気に食わなくとも好きにさせるというところまでである。

 それ以上の義務を他人に課すものではなく、支援しないからといって基本的人権を侵害したことにはならない。

 芸術(と称するもの)への支援は、基本的人権の問題ではない。民意に沿って、何にいくら税金を投入するか、最終的には議会の承認を得て、行政が決めるべき政策の順位づけの問題である。(ふくい よしたか)

 https://special.sankei.com/f/seiron/article/20191025/0001.html
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