(十五)(第十四頌)〜世界を作り出している心〜六識(その七)〜
(原文)
放逸及失念 散乱不正知
不定謂悔眠 尋伺二各二
(読み方)
ほう・いつ・ぎゅう・しつ・ねん さん・らん・ふ・しょう・ち
ぶ・じょう・い・け・みん じん・し・に・かく・に
(訓読)
放逸と及び失念と、散乱と不正知となり。
不定というのは謂く、悔、眠と尋、の二各(おのおの)二あり。
(現代日本語訳)
(第十三頌から続く)
「放逸」(欲望のままふるまうこと)
「失念」(記憶を失うこと)
「散乱」(集中を欠いて乱れること)
「不正知」(誤って理解すること)
以上のものが随煩悩に属します。
不定に属するものは以下のものです。
「悔」(くやむこと)、
「眠」(ねむたくなり、心身の自在を失うこと)、
と
「尋」(認識の対象をおおざっぱに思いはかること)、
「伺」(認識の対象を詳細に思いはかること)、
以上四つのはたらきが不定に属します。
なお、「悔」「眠」と「尋」「伺」の二つにはそれぞれに染(不浄)と不染(浄)の二つの場合があって、それらによって性質が変わります。(それ故に「不定」と言われます。)
(十六)(第十五頌)〜世界を作り出している心〜それらのはたらきと関係性(その一)〜
(原文)
依止根本識 五識随縁現
或倶或不倶 如濤波依水
(読み方)
え・じ・こん・ぽん・じき ご・しき・ずい・えん・げん
わく・く・わく・ふ・く にょ・とう・は・え・すい
(訓読)
根本識に依止(えじ)す。五識は縁に随って(したがって)現す。
或(あるい)は倶に或は倶にならず。濤波の水に依るが如し。
(現代日本語訳)
ところで、第八頌、第九頌で示した六識心王(心王=心の本体、すなわち)眼・耳・鼻・舌・身・意の六識心王は、根本識、すなわち、阿頼耶識をよりどころとしています。このうち、(眼・耳・鼻・舌・身の)五識は、衆縁(しゅえん)すなわち、この世のもの一切のめぐりあわせ(因衆)にしたがって現れます。
この五識は、それぞれが同時(倶)にはたらくこともあれば、あるいは、同時にはたらかないこともあります。それは、波のうねり(五識)が水(根本識)によっている、と譬えることができます。
(十七)(第十六頌)〜世界を作り出している心〜それらのはたらきと関係性(その二)〜
(原文)
意識常現起 除生無想天
及無心二定 睡眠与悶絶
(読み方)
い・しき・じょう・げん・き じょ・しょう・む・そう・てん
きゅう・む・しん・に・じょう ずい・みん・よ・もん・ぜつ
(訓読)
意識は常に現起す。無想天に生じたると
及び無心の二定と、睡眠と悶絶とを除く。
(現代日本語訳)
他方で、意識というものは、以下に述べる場合を除いてはほぼ常にはたらいているといっていいでしょう。そして意識がはたらかない場合というのは、まず、私たちが無想天と呼ばれる色界のかなり上層に生まれた場合、
及び無心の二定に入った場合です。無論、睡眠時や悶絶したとき、すなわちもだえ苦しんで気絶した場合も意識ははたらきません。
(注釈)
「色界」=仏教で説かれる三界の一つ。欲界の上に位置し、欲望を離れてはいるが、なお物質的存在(色)からは離れていない世界(三界=欲界、色界、無色界)。
「無想天」=色界の第四禅天というハイレベルの境界の一つのこと。このレベルに達すれば長期にわたり無心を保つことができると言われている。
「無心の二定」=無想定と滅尽定のこと。「定」とは禅定、すなわち、深い瞑想の境地に達すること。無想定では、六識がはたらかない。滅尽定では、六識がはたらかないばかりではなく、第六識に声なき声で絶えず自己中心性をささやきかける第七識、末那識さえなくなると考えられている。
(十八)(第十七頌)〜世界の在り様は心の在り様(その一)〜
(原文)
是諸識転変 分別所分別
由此彼皆無 故一切唯識
(読み方)
ぜ・しょ・しき・てん・ぺん ふん・べつ・しょ・ふん・べつ
ゆ・し・ひ・かい・む こ・いっ・さい・ゆい・しき
(訓読)
是(の)諸識は転変して、分別たり所(しょ)分別たり。
此れに由って(よって)彼(かれ)は皆無し。故に一切唯識なり。
(現代日本語訳)
以上、三つの能変(第一頌参照)の八識心王とそれらに相応じてはたらく五十一の心所について述べてきました。これら心王と心所こそが様々に変化・展開して、私たち一人ひとりが経験する現実の世界を作り出しています。その要諦は、八識のそれぞれが変化して、分別するものと分別されるもの(所分別)という二つの領域に別れ、それによって認識が成立するのです。
私たちは、ふつう、日常の世界を不変的で実体のあるものと捉えてしまいます。しかし、そんなもの(彼)はどこを探してみてもありません。とどのつまり、あるのは唯識のみ、すなわち、ただ心だけ、すべてはわが心の展開があるだけなのです。(このように解した場合、以下の疑問が生じます。一つは、外界の認識対象がないのに、なぜ認識が生ずるのか、もう一つは、今生における執着に基づく生前行為は相続されるのか、ということです。)
(十九)(第十八頌)〜世界の在り様は心の在り様(その二)〜
(原文)
由一切種識 如是如是変
以展転力故 彼彼分別生
(読み方)
ゆ・いっ・さい・しゅ・しき にょ・ぜ・にょ・ぜ・へん
い・ちん・でん・りつ・こ ひ・ひ・ふん・べつ・しょう
(訓読)
一切種識に由りて是の如く変ず。
展転力を以ての故に、彼彼の分別生ず。
(現代日本語訳)
(第十七頌から生ずる第一の疑問への回答)
一切種識、すなわち、阿頼耶識に保存されている過去の行動情報を種子(しゅうじ)といいます。この種子がいろいろと変化し、これによってあらゆることの一つ一つが生起します。
そして、それらの変化が相互に関わり合うことを以て、日常を構成する様々な分別(第十七頌参照)が生ずるのです。
(二十)(第十九頌)〜世界の在り様は心の在り様(その三)〜
(原文)
由諸業習気 二取習気倶
前異熟既尽 復生余異熟
(読み方)
ゆ・しゅ・ごう・じゅっ・け に・しゅ・じゅっ・け・く
ぜん・に・じゅく・き・じん ぶ・しょう・よ・い・じゅく
(訓読)
諸業の習気と、二取の習気と倶(く)なるに因り、
前(さき)の異熟既に尽(つ)くれば、復た(また)余(よ)の異熟を生ず。
(現代日本語訳)
(第十七頌から生ずる第二の疑問への回答)
私たちが日々行う行動情報は、阿頼耶識に送りこまれ蓄えられます。これを業種子といいます。(諸の業の習気)。また、私たちは、ものごとを理解するほとんどの場合、言葉(名言(みょうごん))を用いて、主観・客観という二元対立の世界を勝手に作り上げることによって行っています。これを名言種子(みょうごんしゅうじ)といいます(二取の習気)。もとより、業種子と名言種子はそれぞれ別の種子というわけではなく、二つで一つのものとして存在し、相互に関与し合って私たちの行動を支配しています。
そして、肉体が滅びると共に今生に現れた阿頼耶識は、一定期間を経て滅びますが、次生に生ずる阿頼耶識は、今生に蓄えられられた種子を果報として引き継ぎます(異熟)。
(二十一)(第二十頌)〜在るべき世界のための心の在り方(その一)〜
(原文)
由彼彼遍計 遍計種種物
此遍計所執 自性無所有
(読み方)
ゆ・ひ・ひ・へん・げ へん・げ・しゅ・しゅ・もつ
し・へん・げ・しょ・しゅう じ・しょう・む・しょ・う
(訓読)
彼彼の遍計に由て、種々の物を遍計す。
此の(この)遍計所執の、自性は所有無し。
(現代日本語訳)
(ところで、)私たちの様々な思い計らい(遍計)によって、私たち一人ひとりの日常世界は成り立っています。
そして、こうした思い計らいによって成り立っている世界を私たちは実体的に有るものとして受け止めています。しかし、それは、私たちが勝手に有るものと思っいるだけで、実は、どこにも有るわけではありません。
(二十二)(第二十一頌)〜在るべき世界のための心の在り方(その二)〜
(原文)
依他起自性 分別縁所生
円成実於彼 常遠離前性
(読み方)
え・た・き・じ・しょう ふん・べつ・えん・しょ・しょう
えん・じょう・じつ・お・ひ じょう・おん・り・ぜん・しょう
(訓読)
依他起の自性の、分別は縁の所生なり。
円成実は彼(かれ)に於て(おいて)、常に前の遠離せる性なり。
(現代日本語訳)
(私たちの日常は、私たち一人ひとりが勝手にあるものと思っている世界であることは既に述べたところ(第二十頌で述べたところ)ですが、では、そもそも、一般的にみて、世界というものは、どのように成り立っているのでしょうか。
この点については、)そもそも世界とは、ある絶対条件の下、それ自体、単独で存在するものではないのです。すなわち、様々な原因が一定の条件の下、一時的に和合して成り立っているのです。それは、元来、様々な縁によって生起するという性質を有しています。唯識では、これを「依他起」といいます。
では、私たちが真に求めるべき世界は何でしょうか。その世界とは、円満に完成された真実の世界のことを指します。これを「円成実」といいます。そして、この円成実の世界は先ほど述べた遍計所執の世界(第二十頌参照)からは常に隔絶した性質を有しています。(第二十二頌に続く)
(二十三)(第二十二頌)〜在るべき世界のための心の在り方(その三)〜
(原文)
故此与依他 非異非不異
如無常等性 非不見此彼
(読み方)
こ・し・よ・え・た ひ・い・ひ・ふ・い
にょ・む・じょう・とう・しょう ひ・ふ・けん・し・ひ
(訓読)
故に此れと依他とは、異にも非ず不異にも非ず。
無常等の性の如し。此(これ)を見ずして彼(かれ)を見るものに非ず。
(現代日本語訳)
(第二十一頌から続く)それ故に円成実と依他起とは、異なるものに非ざるとも、異ならざるものに非ざるともいえるでしょう。(すなわち、円成実と依他起は、別のものでも、同じものでもないのです。)
これは、例えば、無常という事実と無常という真実のようなものではないでしょうか。(私たちは、常日頃、「諸行無常」という事実を口にします。ところが、どうでしょう、私たちは、何かよいことがあると、それが永遠に続くと勝手に思い計らいそれに執着してしまいます。しかし、それは、「諸行無常」という真実に目を背けているのではないでしょうか。すなわち、)私たちは、円成実という真実を見据えない限り、依他起の事実も見えてこないのです。
(注釈)
(三性の別の表現)「三性」:第二十三頌を参照
・遍計所執性:妄有
・依他起性 :仮有
・円成実性 :真有
�ァ崑萋鷭住稲鵝廖繊崋畄觧楷衒検廚紡海�
https://mixi.jp/view_diary.pl?guid=ON&id=1972932629&owner_id=47122285&via=list_diary_history
唯識説−概説に戻る
http://mixi.jp/view_diary.pl?guid=ON&id=1972930496&owner_id=47122285&via=list_diary_history
ログインしてコメントを確認・投稿する