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2019年08月22日14:35

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樺太・千島戦争体験 三船遭難生き延びて甲板に横たわる男性の胸から流れ出すおびただしい量の血。終戦直後、樺太から引き揚げる船の上で9歳の男の子が見たのは悲惨な光景だった

終戦後の樺太から民間人を乗せて引き上げる船をソ連の潜水艦が撃沈した事件。ソ連(ロシア)から一度も謝罪の無いまま風化しようとしている。

対馬丸の犠牲者もたくさん出たが、三船殉難事件の犠牲者はその約3倍である。


第二次大戦終戦直後に北海道の留萌沖で、樺太からの引揚げ船3隻がソ連潜水艦の攻撃を受けて約1700人の邦人が犠牲になった「三船殉難事件」。なかでも日本国内最後の戦争犠牲者(約660人)を出した泰東丸の名前をしっている人は一体どれだけいるだろう。


泰東丸など三船が攻撃されたのは、1945年8月22日の朝。終戦から1週間後のことであり、だれがなんのために日本の引揚げ船を攻撃したのかは長い間、わからなかった。当初からソ連の関与がささやかれたが確証はなく、シベリア抑留者の帰還問題を抱えた日本政府は「国籍不明の潜水艦」という立場をとってきた。

ソ連は北海道の分割・占領を計画

樺太引揚三船遭難遺族会の永谷保彦会長の調査によって、平成5年(1993年)小笠原丸は旧ソ連の潜水艦L-12号で、第二新興丸と泰東丸はL-19号によって攻撃されたことがわかった。旧ソ連国防省戦史研究所の資料が裏付けとなった。さらに同研究所の資料から、ソ連首相のスターリンが北海道の北半分を占領するため、事件翌日の8月23日に留萌上陸の作戦計画を進めていたことも明らかになったという。


アメリカ大統領トルーマンからスターリンの北海道占領計画は拒否され、8月22日に作戦中止命令は出ていたが、なぜ潜水艦が無差別攻撃をしたのか、中止命令が果たして潜水艦に届いていたのか、疑問は残ったままだ。


旧ソ連に対する怒りと事件を見て見ぬふりをしてきた日本政府・与野党・外務省・テレビや新聞社の罪も大きい。

『対馬丸』の慰霊祭を取り上げるのであれば、三船殉難事件の慰霊祭も取り上げるべきである。

元横綱大鵬の納谷幸喜さんは、沈められた小笠原丸に乗っていたが、途中の稚内で下船したため命拾いした887人の一人だった。

また日露間の平和条約を締結するならば、「三船殉難事件」の真相を解明し、旧ソ連の責任を追及する必要もあるのではないだろうか。 


■対馬丸犠牲者の冥福祈る=疎開船撃沈75年で慰霊祭−沖縄
(時事通信社 - 08月22日 13:01)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=5757675
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