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2019年06月09日17:13

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【藤本欣也の中国探訪】「タンクマン」をひき殺さなかった軍人の勇気 天安門事件の現場をゆく

 下記は、2019.6.9 付の 産経デジタル の記事です。

                        記

 中国の民主化運動が武力弾圧された1989年6月4日の天安門事件から30年が過ぎた。当局は死者を319人と発表しているが、実際にはそれ以上の犠牲者が出たとみられている。天安門広場を舞台に100万人規模のデモ集会が行われた89年の学生運動と、天安門事件の現場を回った。

 中国共産党は、建国の父、毛沢東の巨大肖像画が見守る天安門広場を“聖地”として位置付けている。

 広場は南北880メートル、東西500メートルの総面積44万平方メートル。党は「100万人の大集会が可能な世界最大の広場」としている。

 1949年に毛沢東が天安門楼上から建国を宣言したときや、その毛沢東が76年に死去したとき、広場は人民で埋まった。

 そして89年5月17日、民主化を求める学生に労働者や市民も加わり、100万人規模のデモが行われたのもこの広場である。

 89年の民主化運動当時、学生グループは広場中央の人民英雄記念碑に指揮所を置いていた。

 人民英雄記念碑は高さ約38メートル。共産中国の建国の過程で亡くなった犠牲者を追悼するため58年に建てられた。「人民英雄永垂不朽」(人民の英雄は永遠に不滅だ)の題辞は毛沢東の筆になる。

 76年に周恩来元首相が死去した際、人民英雄記念碑は市民から寄せられた花輪でいっぱいになった。89年4月15日に胡耀邦元総書記が急死したときも、学生らは人民英雄記念碑に数え切れないほどの花輪をささげた。この追悼活動が民主化運動に発展していった。

                      □ □

 天安門広場の2キロ西にある西単は北京有数の繁華街だ。大型のショッピングモールが林立し、若者たちでにぎわっている。

 78年には、交差点近くのレンガ塀に大量の壁新聞が張られ、集会やデモが盛んに行われた。いわば、民主化運動のメッカとしての側面も持つ。

 だが、30年前の89年6月4日、この西単は戦場の様相を呈していた。

 「軍の車両があちこちで燃えていた。銃を水平に構える兵士たちもいた。ここで死ぬかもしれない、と覚悟した」

 当時、新聞記者だった楊凱氏=仮名(67)=はこう振り返る。カメラを持って自宅を飛び出し、市街戦さながらの西単に着いたのは4日午前2時過ぎ。

 装甲車や戦車の轟音(ごうおん)、銃声、市民の怒号が街に満ちていた。

 軍は3日夜、学生らが拠点とする天安門広場の制圧作戦を開始。一部部隊は午後9時すぎ、長安街の公主墳付近から東へ約8キロ離れた天安門広場に向けて進軍した。途中、2キロ先の木●(=木へんに犀)地(もくせいち)で軍を食い止めようとする市民との間で大規模な衝突が発生。無差別発砲を始めた部隊は西単でも市民の抵抗に遭っていたのだ。

 楊氏は通りを走り抜けようとした。しかし途中、軍車両が通りを封鎖して進めなくなった。そこを兵士に銃撃され、ほかの市民たちと通りに倒れ込んだ。

 気が付くと、死体と間違えられ、台車に積み上げられていた。他人の血を浴びて全身は真っ赤。けがはなかった。ただ、銃声を近くで聞き続けたせいか、聴力が麻痺していた。

                      ◇ ◇

 軍部隊は市民の抵抗に遭いながらも天安門広場に到達、4日午前4時半ごろから広場の掃討に乗り出した。人民英雄記念碑の周囲に残っていた学生ら数千人は撤退を決意。午前5時ごろから順次広場を離れていった。

 惨劇は、広場にほど近い六部口で起きた。すっかり夜が明けた午前6時過ぎ、戦車が暴走したのだ。広場から撤退した学生らを文字通り踏みつぶしていった。

 当時、工場労働者だった王峰氏=仮名(59)=はその場に居合わせた一人。

 「暴走はそれで終わらなかった。続いて、戦車に向かって怒りの声を上げた学生たちに突進していった。その残虐さに言葉を失った…」

 王氏は「11人が死んだ」と聞いたが、明らかではない。負傷者数も分かっていないが、足を切断するなど重傷を負った人が多い。

 六部口のすぐそばに党の要人らが居住する中南海がある。長安街に面した新華門前は、30年前の4月18日夜、学生らが座り込んで、当時の李鵬首相との対話を要求した場所だ。

 現在は、北京で最も警備が厳しいところになっている。長安街も今でこそ、車両がひっきりなしに走行する幹線道路だが、30年前、この大通りを行き交っていたのは無数の自転車だった。

                      ◇ ◇

 六部口の惨劇が示しているように、軍による武力弾圧は天安門広場が制圧された後も続いた。

 北京在住の政治学者、呉強氏(48)は89年6月5日午前、天安門広場隣の長安街で兵士が水平射撃するのを目撃した。

 「無差別に銃撃するだけでなく、狙撃兵が配置され、軍に罵声を浴びせた市民を狙い撃ちしていた」

 呉氏自身は門の柱に隠れて助かったが、近くにいた青年は抗議の声を上げた途端、額を撃ち抜かれて即死した。

 呉氏は「午前10時ごろだったように思う。空は晴れ渡っていた」という。

 この惨劇の後、数百メートルしか離れていない長安街において、“中国民主化運動の英雄”が誕生した。

 10両以上連なる戦車の車列の前に、たった独りで立ちはだかった男性だ。欧米では「タンクマン」と呼ばれている。男性は戦車の進路を遮った後、戦車によじのぼり、車内の軍人を説得しようとした。結局、男性は他の男たちに通りの外側に連れ出された。

 その一部始終を目撃していた米メディアの記者らがいた。隣接する北京飯店の客室から写真や映像を撮影、男性の行動が世に知れわたったのである。

 タンクマンのその後の消息は不明だ。「処刑された」「投獄されて精神を病んだ」「台湾でひそかに暮らしている」など真偽不明の諸説がある。

 民主活動家の胡佳氏(45)はこう指摘する。

 「タンクマンの勇気は言うまでもないが、あのときの戦車の指揮官の決断にも注目したい。彼はタンクマンをひき殺さなかった。人を殺さないという1人の軍人の勇気を示したのだ」

 前日の4日には、六部口で戦車が学生らを無差別にひき殺している。

 あの日、タンクマンをひき殺さなかった軍人は、“もう一人のタンクマン”と言えるかもしれない。ただ、「断固たる措置を取らなかった」として処罰された可能性がある。タンクマン同様、その後の消息は分かっていない。

=中国総局長

【用語解説】天安門事件

 1989年4月、胡耀邦元総書記の死去を受けて組織された大学生の追悼活動が、大規模な民主化要求運動に発展。5月には天安門広場で労働者や一般市民も参加した100万人のデモが行われた。●(=登におおざと)小平を最高指導者とする中国共産党は、学生に理解を示していた総書記の趙紫陽を事実上解任し戒厳令を布告。6月3日夜から4日未明にかけて、学生らが占拠する天安門広場の制圧に乗り出し、部隊が広場に向かう途中で多数の死傷者を出した。中国政府は事件を「反革命暴乱」と規定し、再評価を拒否している。

 https://www.msn.com/ja-jp/news/world/%e3%80%90%e8%97%a4%e6%9c%ac%e6%ac%a3%e4%b9%9f%e3%81%ae%e4%b8%ad%e5%9b%bd%e6%8e%a2%e8%a8%aa%e3%80%91%e3%80%8c%e3%82%bf%e3%83%b3%e3%82%af%e3%83%9e%e3%83%b3%e3%80%8d%e3%82%92%e3%81%b2%e3%81%8d%e6%ae%ba%e3%81%95%e3%81%aa%e3%81%8b%e3%81%a3%e3%81%9f%e8%bb%8d%e4%ba%ba%e3%81%ae%e5%8b%87%e6%b0%97-%e5%a4%a9%e5%ae%89%e9%96%80%e4%ba%8b%e4%bb%b6%e3%81%ae%e7%8f%be%e5%a0%b4%e3%82%92%e3%82%86%e3%81%8f/ar-AACAAoy#page=2
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