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2019年06月03日20:02

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【LGBT】 道徳心理学とホモフォビア(同性愛嫌悪)

例えば同性結婚をしても、誰にも迷惑はかからないはずである。むしろ良い事ずくめだ。
同性結婚は「機会の平等」であって、特権でも特別扱いでもない。幸福なカップルを増やす試みである。
にも関わらず、多くの人が反対する。反対者には、特別レイシストでもない人も多い。ごく普通の隣人だったりする。

「なぜ反対なのですか? 誰にも迷惑なんかかからないじゃないですか。」
こう言うと。時々こんな答えが返ってくる。
「他人に迷惑をかけなければ何をやっても良い? そんなわけないだろう!」
私はここが理解できなった。他人に迷惑をかけなければ、何をやろうとそれは自由なのではないか? 私はそう思ってきたのだ。
しかし彼らは、他人に迷惑をかける以外の「何か」を問題にしているのだ。

この本を読んだとき、私は疑問の一部が氷解したように思う。
「社会はなぜ左と右にわかれるのか 対立を超えるための道徳心理学」
フォト


「自分が所有する『国旗』で、誰も見ていない所で便所掃除をする」
「血のつながりの無い、連れ子同士の兄と妹が、厳重に避妊をした上で性交をする」
「親子の芸人がどつき漫才をする。父親がボケ役で、つっこみ役の息子が、打ち合わせ通りに親父をビンタして、観客に受けた」


いずれも他人に迷惑をかけていない。
しかし少なからぬ数の人が、こんなことは許されないと現に感じる.。もとい、これを不快に感じる。
なぜだろう?

とまれ、この本は道徳心理学の本である。発達心理学の応用のようだが、認知心理学の方法で研究が行われている。
ぶっちゃけ、人はどうやって「道徳」を作るのか? それを認知心理学の方法で研究する学問である。

この本の著者は、人間は道徳を形成するに当たって、大きな3つのベースがあるという。
1つは、人類は「善悪」を感じる「衝動」を先天的に持っていると言うことだ。多分、遺伝子へのプログラミングである。
こうした「衝動」が先にあり、後から人間はこれを考察する。
多くの場合、人間はこの「衝動」を否定せず、理論武装をする。主導権は「衝動」にある。「衝動」が主であり、理論武装や調整は「従」なのだ。著者はこれを「象と象使い」に例える。
人が善悪の考え方を簡単に変えることが出来ないのは、このためなのだ。
もちろん人は決してこの「衝動」の奴隷ではない。しかしその衝動を抑えるには、他人の意見を聞いて考察する等の後天的な作業が必要になってくるのだ。
善悪が理性ではなく、「衝動」に基ずいていることは、カント主義者には不快かもしれない。しかし善悪の「衝動」をなくし、理性だけになるのは、非常に危険なのだ。サイコパスがその注目すべき症例だろう。

2つ目は、上記の「衝動」は6つのファクターから成るということだ。
それは、危害とケア、自由と抑圧、公平性、忠誠、権威、神聖と堕落(僕は民俗学、文化人類学的にケガレと表現する)である。

3つ目は、上記は「集団」の利益を守るために作用するということだ。
人間は基本的にエゴイストであるが、同時に自分の属する集団を守ろうとする。時には自己犠牲を行ってでも。
これを著者は「8割のチンパンジーと2割のミツバチ」と表現する(著者はここでマルチレベルの「群淘汰」説の再評価を支持している)。

上記を考えれば、同性結婚に反対する人のメカニズムが綺麗に説明できてしまうように思う。
リベラルは「危害とケア」(他人に迷惑をかけるんじゃねえ)と「公平性」(機会の平等)と「自由と抑圧」(少数派の人権)の3つのファクターだけで、考えてしまいがちだ。
しかし保守はそうではない。他のファクターを持っているのだ。


保守は「神聖と堕落(ケガレ)」のファクターで同性愛を見る。すなわち彼らにとって同性愛とは、「堕落したケガレた行為」であり、「不道徳」なのだ。ホモフォビア(同性愛嫌悪)は、理屈ではなく衝動そのものである。
これに対し、リベラルは、この「神聖と堕落(ケガレ)」のファクターを重視しない。
両者のすれ違いはここから生じているように思う。


問題は基本的人権等の民主主義は、危害とケア、自由と抑圧、公平性の3つから、成り立っていることだ(忠誠、権威、神聖と堕落(ケガレ)は、むしろ封建的な価値観と見なされることも度々だ)。
そのため、教養ある人間は、「同性愛は堕落したケガレた行為」だなんて口が裂けても言えない。それはレイシズムであり、保守派であっても教養ある人間は、だいたいがそれに同意している。
こうした保守派が同性結婚に反対するとしよう。となると彼らは、危害とケア、自由と抑圧、公平性の文脈で、強引に理論武装をせざるを得ない。
しかしそれは最初から無理がある。全く別のファクターだからだ。
その結果、彼らは屁理屈を言わざるを得ないのだ。
例えば「同性結婚を認めると少子化が進む」、「財政を圧迫する」、「憲法24条は同性結婚を禁止してる」等。
冷静に考えれば、これらはいずれもバカバカしい屁理屈である。
しかし現実問題として、多数決を取ったり、保守的な司法にまかせると、こうした屁理屈が通ってしまうのは、そのためなのだ。

「下品な本音主義」のどこぞの文芸評論家は、堂々と「同性愛は堕落したケガレた行為」の文脈で書いた。本人は正義のつもりなのだろうし、これに喝采を贈った連中にとっても、これは正義なのだ。
彼はカミングアウトを下品な行為と非難する。私は当初はこれが全く理解できなかったが、神聖と堕落(ケガレ)の文脈で考えて、やっと理解できた。
要するに連中は、「他人に迷惑をかけずとも、人としてやってはいけないことはある、それが同性愛だ」と言う前提で、(無意識的であれ意識的であれ)語っていたのだろう。

話しを戻そう。
3つのベースと6つのファクターを基にして、多くの環境その他から、いくつもの「道徳」と言う文化が形成される。
著者は例証として、リベラル、リバタリアン、保守の3つを挙げている。

このうちリベラルは6つのファクターの中の危害とケア、自由と抑圧、公平性の3つしか持たず、特に危害とケアを最重視する。
リベラルが少数派や弱者の人権と福祉に関心を持つのは、このためである。

これに対し、保守は危害とケア、自由と抑圧、公平性、忠誠、権威、神聖と堕落(ケガレ)の全てを持っている。
保守が多数決で有利になるのは、このためである。あらゆる善悪の衝動を、彼らは内包しているからなのだ。

リバタリアンは保守と混同されがちだが、善悪の衝動は実はリベラルに近い。
彼らはリベラル同様、忠誠、権威、神聖と堕落(ケガレ)をあまり持たない。しかし自由と抑圧、公平性を非常に重視する。反面、危害とケアには関心が無いのが大きな特徴だ。彼らは、保守よりもさらに危害とケアへの衝動が少ない。/strong>
彼らが新自由主義や自己責任を唱え、生活保護等の社会福祉に冷淡になるのはそのためだ。

こう考えると、アメリカでの同性結婚合法化も説明がつく。
リベラルは同性結婚に賛成し、保守は反対した。ところがリバタリアンは同性結婚に賛成したのである。彼らは福祉にはあまり関心が無いが、自由と公平性は重視するからだ。それで共和党の一部が、同性結婚に対し、賛成に回ったのである。

著者は、上記の3つのベース、6つのファクターから「道徳」と言う文化が生まれると言う。
ここで悪しき価値相対主義に陥る必要は無い。正しい・間違っているの議論は大いにやるべきである。なぜなら6つのファクターは、お互いに矛盾し合い衝突する事も度々だからだ。人類は、そこから妥協策を探り、1人でも多くの人が幸福になるように努力しなければならないからだ。
(もっとも著者は、論理も教養もなく罵倒ばかりで議論の出来ない人間は無視して良いが、とも言い添えている)
しかし、論敵の多くは「間違っている」のであり、「邪悪」ではない。あなたとは異なった道徳の文化を持っているにすぎない。そこを忘れるな、と結論ずけている。




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