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2019年04月27日20:29

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「兵站」無視で突き進んだ太平洋戦争 兵士の7割は餓死した

 太平洋戦争で戦死した兵士のうち、7割は餓死だったという。戦わずして死亡したことになる。軍事指導者は戦線を一方的に拡大して兵士をあらゆる地域に送り込み、戦闘とその地の防衛を命じたが、「兵站」を考えていなかった。兵站とは東南アジアの各地に散らばった兵士に食糧や衣服、日用品、さらには軍備を継続的に補強すること。本来はこうして戦争の形が出来上がっていくことになる。この兵站を日本軍が軽視していたことは明白だ。

 陸軍大学校では50人ほどの将校(大体が30歳前後)が学ぶのだが、成績上位の者が作戦部に、ついで情報部にと配属される。むろん本人がどうしてもこの分野に進みたいと希望すれば、兵站や輜重の参謀になれることもある。しかし大体は、成績下位の者がその部門に進むよう命令されたというのであった。

 作戦参謀のみが戦時指導に当たる特権を持っていた。作戦が先行する形で作戦参謀が全権を握り、その命令こそが天皇の命令として軍内を支配していたのである。

 日中戦争時にある師団の兵站参謀が、食糧などの補給が作戦計画に含まれていないと怒り、綿密な計画表を作って司令官に提出した。だが彼は「全く意見を聞いてもらえなかった」と証言していた。作戦主導・兵站を軽視した証しが餓死の多さに表れていたのである。

 日本社会はあまりに無謀な戦争を続けて病んだ状態になった。社会そのものが兵站軽視だったのである。

 米が配給制になったのは昭和16年4月だった。やがて食糧の大半が配給となっていく。政府は戦時社会を支える成人男子は1日に2400キロカロリーが必要だと発表し、その分の食糧は確保すると明言したが、戦争末期になると約1800キロカロリーしか保証できないと言いだした。国民は空腹で戦争を続け、前線の兵士は補給がなく、次々と餓死していく。軍事指導者は戦争を「聖戦」と称し、こうした悲惨な事実を隠蔽することに躍起となったのである。

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/252770
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