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2019年04月11日17:27

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ギーター 2(感覚器官と心と叡智)


<2>感覚器官と心と英知
★ギーター/3-42
(長谷川訳)
物質的世界と肉体に感覚器官があり、感覚器官の上に心がある。心の上に叡智(ブッデイ)があり、そして叡智の上にあるのが、パラマートマー(神)がある。
(長谷川解説)
人間に視覚、聴覚、味覚、嗅覚、そして触覚に関した5つの感覚器官がある。この他にインド哲学では、手足、声、排泄器官、生殖器官を5つの作用器官として考えている。心は、この両者間の仲介者と監督者の働きをしている。このため、心は、両者(二種類)の感覚器官よりも優位にあるとされる。心は思考し、煩悶する。叡智は言葉と思考の上の静寂な意識の境地である。パラマートマー(神)は、叡智のさらに上にある。インド哲学の知に関する、これらの説のお互いの関係を理解することは大変重要である。
(田中訳)
感覚はその対象より優れ、心は感覚より優れ、知性(ブッディ)は心より勝れている。だが、かれ(アートマン。真理。霊我。魂。自己の本体)は知性(ブッディ)より上位である。
(向井田)
感覚は肉体よりも微かで、全身に広がっている。感覚は肉体が届かないところも行き渡る。それゆえ、感覚は肉体より優れているといわれる。
その感覚より微かで、大きな広がりをもつのが心だ。
感覚の届かないところに、心は広がる。そして心より優れているのが知性である。心は迷い、ためらいもするが、知性は迷うことがない。感覚も心も知性の内にある。知性まで『カ−マ(欲望)』の力は及んでいる。
そして知性より優れるのが『アートマン(真我、真実)』、本当の君自身だ。自分自身の真実は、知性でも、心でも、感覚でも肉体でもない。
それらを成り立たせていながらも、それれらから影響を受けることのない“存在”である。君自身の真実は限りなく、永遠で、どんな欲望からも自由である。
(上村訳)
諸感官は強力であると言われる。思考器官(マナス)は諸感官より高く、思惟器官(ブッデイ)は思考器官より高い。しかし、思惟器官の上にあるもの、それが彼(個我)である。

★ギーター/6-35
(長谷川訳)
アルジュナよ、人の心は決して落ち着かず、困難に支配されようとしている。しかしアビヤーサ(修習)とヴァイラーギヤ(離欲)によって、それを統御できるのだ。
(長谷川解説)
人の心は、生来不安定で、またその統御も困難である。しかしそれを統御するには二つの方法―習得と離欲がある。快楽の対象から心と感覚器官を切り離すヴァイラーギヤ(離欲)、自分の内面に心をしっかりと向け、そして、そこに留まらせるアビヤーサ(修習)、この二つの方法を同時に行うのだ。習得なしの離欲、離欲なしの習得を行うことはできない。心は内界において、ある喜びに合う時だけ、外界の対象から離れる。同時に外界の事象から心を引き離すことなしに、人は内面の喜びを経験することは不可能であろう。パタンジャリも、、ヨーガ哲学の中で言っている。“習得と離欲によって心を統御せよ”と。
(田中訳)
至上者(バガヴァーン)語る。「クンティーの息子、剛力無双の勇士よ。たえず動きさわぐ心を制御するのは、君の言う通りたしかに難しいが、不断の修練と離慾に可能だ。
(向井田)
クリシュナはいいました。
「アルジュナよ。全く君のいうとおり、心は動揺し、手の内に収めることはとても難しい。
しかし、ウンティの息子よ。
物事をありのままに、主観的な価値観を上乗せせずに客観的にとらえ、常に冷静であることを忘れずに、繰り返し物事の本質を見極める練習を瞑想ですることによって、いつか必ず君は心を手に収めることができる。

★ギーター/2-67

(長谷川訳)
快楽の方に向きつつある感覚器官の後に、心が惹かれる時、人の叡智は、水の上を行く小舟が風に翻弄されるように、たえず揺れ動き続ける。
(長谷川解説)
感覚器官は、本質的に各々の快楽の方向に引きつけられる。目は美しきものを見、舌はおいしいものを味わい、耳は甘美な音を聞くことを欲する等、このように感覚器官が気に入ったものは、心もまた意にかなうのだ。しかし、感覚器官自身、自分で快楽の対象をを得ることはできない。心は、利用する対象と感覚器官を結び付ける働きを行うのである。このように心は、感覚器官の後についていく時、人の叡智は明確に働かない。
インド思想では、心に大変重要な位置を与えられてきた。人生お中心がこの心である。その人の人生の様相は、彼の心の性質に従うのである。ヒンディー語の諺に “心の敗北は敗北なり、心の勝利は小利なり” というのがある。

(田中訳)
水の上を行く舟が、強い風に吹き流されるように、諸感覚のただ一つにさえ心ゆるしたなら、人の知性(ブッディ)は忽ち奪われてしまうのだ。
(向井田)
心は移り気で気まぐれな性質があるから、感覚は世界のいろいろなものに惹きつけられ、惑わされ、本当に大切なことを簡単に見失ってしまう。ちょうそ水の上に浮かぶ船が風に揺り動かされ、もう目的地を見失ってしまうように。

★ギーター/2-64
(長谷川訳)
節度のある人は自分の感覚器官をしっかりと律し、そして愛欲に溺れたり、嫌悪を抱くことなく、感覚器官によって、それらの楽しみを享受する。それによって、汚れのない、至上の喜び(プラサダー)の境地を得る。
(長谷川解説)
人にとって、彼の感覚器官は大変有用な道具である。世界のあらゆる知識と幸福は、我々の感覚器官によって得ている。感覚器官を無視して我々の世界を理解することはできないし、またこれを楽しむこともできない。しかし、我々が快適なものだけを欲し、不愉快なものを遠ざけようとする時、我々の心には不安が生じる。良い道具とは使う者が完全に統御できるものである。もし、我々が感覚器官を自分の支配下において快楽を享受できれば、我々は平安と汚れのない喜びの境地を獲得することができるであろう。その状態をプラサーダと言う。
(田中訳)
解脱への正規の方法(みち)を修行し、感覚の統御に努力する人は、至上者(かみ)の恩寵(めぐみ)をいただいて、あらゆる愛着と嫌悪から解放される。
(向井田)
人の心が何かに惹かれることから破壊するまでの原因に、『ラーガ・ドヴェーシャ(好き嫌い)』という思いがある。その思いを基準にしてはいけない。すべきことは正しいか? 正しくないのか? という『ダルマ(秩序)』を行いの基準にすれば、心は簡単に振り回されない。
感覚を意志の力で正しく使える人は、移り変わる世界をありのままに、自由に味わうことができる。
人の問題の根源にある“好き嫌い”を扱える人の心は穏やかである。

★ギーター/2-65
(長谷川訳)
清浄な喜びの境地(プラサダー)にある人は、すべての苦しみから解放される。そして、そんな喜びのある人の叡智も直ちに不動のものとなる。
(長谷川解説)
人は常に幸せを得ることを望み、不幸から離れようとする。しかし、幸福を追いかけたり、幸福を享受しながらも、人は不幸を遠ざけることはできない。幸福を失くす心配と不幸の恐怖は、常に人の心から離れない。人の心が平和と清浄な境地にある時、初めて彼は苦しみから逃れることができる。清浄な喜びの境地にない限り、人の叡智も不動のものとならない。我々の人生の喜びと苦しみの関係は、周りの環境によってあるのではなく、我々の心の状態に依る。心が平静であれば人はどんな状態にあっても喜びがある。しかし、もし心に落ち着きがなければ、何かにつけ不幸を感じずにはおれない。
(田中訳)
至上者(かみ)の恩寵(めぐみ)を得たとき、物質界の三重苦(1-自然界からくる天災、気候。2-人間を含めた他の生物からくるもの。3-自分の肉体に関するもの)は消滅し、この幸福(さち)豊かな境地で、速やかに知性(ブッディ)は安定する。
(向井田)
心が落ち着いているとき、苦しみや悲しみはない。
静かに澄んだ心に自分自身の知識が定着する。この知識の理解が人の悲しみや苦しみを根源から断ち切ってしまうだろう。

★ギーター/6-26

(長谷川訳)
彼の落ち着かない、不安定な心が、此処彼処に揺れ動く時、そこから心を引き離し、それを統御して自己の支配下に導くべきである。
(長谷川解説)
心の本性は不安定であるために、それを掌握するには相当の努力を要する。前に、心を統御するために、習修(アビヤーサ)と離欲(ヴァイラーギャ)の二つの方法があると述べた。これらをたゆみなく修練しなければならない。日常仕事をしている時でも、心が何処か別の方法に迷い始めたと気がつけば、元に戻して、またその仕事に心を集中しなければならない。瞑想の修練も、心の統御に役立つのは当然である。我々の人生の源流は、我々の内にある。瞑想の修練によって、我々の心に平静をもたらすだけではなく、同時に、我々の魂の根源にある喜びに満ちた自身の姿を知る機会も得られる。心の上に魂の統御がなされた時、初めて人は真の自由を獲得できる。それ以外の状態の人は、自分の心と感覚器官の、そして、その対象である外界の奴隷になり続ける。
(田中訳)
心の性質は頼りがたく、揺らぎやすい。いつ、いかなることにも動き、彷徨(さまよ)う。修行者(ヨーギー)はこれを断固として引き戻し、真我の支配下におかなくてはいけない。
(向井田)
しかし心という道具は一つに定まらず、常に動き回る性質がある。
もし何かの理由で心が瞑想から離れてしまうなら、その理由の本質でもある真実『アートマン(真我、真実)に心を連れ戻し、必ず心を自分の手の内に収めるようにしなさい。

★ギーター/6-25

(長谷川訳)
揺るがぬ叡智によって、人は心を次第次第に平静に導き、そして、心は魂に帰属して、何ものも思念してはならぬ。
(長谷川解説)
たえず何かしら考えつづけているのが、人の心の本質である。 “我々は考えなくとも、思考が自ずと我々の中に湧きつづける” とシュリー・オーロビンドは言っている。この制止しがたい思考によって問題が解決されることは少なく、混乱の方が多い。人生の多くの困難は、その人の不安定な心の産物である。我々は考えの必要な時に考え、考える必要のないときには考えない、という意識状態に到達するために、修練が必要である。自分の思考を十分管理できる人こそ、思考家と呼ぶことができる。残りの多くの人々は、自分の不安定な心に縛られている。自分の心を完全に支配し、そして、自分の内面の平静な意識に不動でいられるのが、叡智の人である。
(田中訳)
十分な確信をもって一歩また一歩と、知性(ブッディ)に導かれてサマーディの峯に登れ。そして心をただ一つの真我(アートマン)に固定し、ほかの一切を思うな、考えるな。

★ギーター/2-52
(長谷川訳)
お前の叡智が、迷妄の沼を超えることができれば、お前は、これまでいくらか聞いたこと、これから先聞くであろう、すべてのことに無関心でいられる。
(長谷川解説)
我々は、ほとんど自分の生活は他人の言うことによって動かされている。我々は宗教的な認識、政治的意見維新の信念、そして習慣も全て他者によってもたらされている。それらの中には、我々自身のものは何もない。それは様々な淵源から、我々はお互いに矛盾した意見を聞いたり、読んだりするため、我々の人生は常に様々な誤解と迷妄に満ちている。内面生活に関しても、こことはさらによく当てはまる。何故なら、これについて独自の考えを持てる人は、極少数の人々しかいないからである。言葉の渦に巻き込まれている人は、決して真実の道を見だすことはできない。叡智の境地に到達した人は言葉を超えている。そこでその人は、常に言葉の彼方にある。究極の心理を知るのである。
(田中訳)
知性(ブッディ)が迷妄の密林から脱け出ると、今まで聞かされてきたことと、これから聞くであろうことの、全部(すべて)に超然として惑わされない。
(向井田)
アルジュナよ。
君が本当に何を求めるべきか? 生きる目的を知り、貫くためにはどうすればいか? それが解った時、君の迷いはなくなるだろう。
その時過去に聞いてきたことも、未来に聞くかもしれないも君を迷わせることはなくなるだろう。君が求めるべきことは、君自身の真実である。




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