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2019年04月02日16:14

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「天真療法」案内39

前回は、「天真療法」も「強健術」においても人為、作為、はからいを捨てた境地「天真の世界」こそ重要であるとの言葉を見てきましたが、今回もその言葉を掘り下げて行きます。
それでは、「強健術」のようないわゆる「型」、「健康法」を捨てた日常そのままの世界とは、どのようなものなのでしょうか。
健康上欠陥ある中(うち)は、特種の鍛錬修養も、必要であるが、やがては、凡(すべ)てをかなぐり捨て、原則も、確信も、体得も、悟道も、木ッ端微塵(こっぱみじん)に、ぶち砕いて、溝の中に叩き込んで此(こ)のままの世界に、此の體(からだ)だけを以(もっ)て、溢(あふ)るる、幸福と、歓喜と、光明の恩寵を汲(く)むの、真自由境に、活(い)きねばならぬのだ。(聖中心道肥田式強健術 P.491)
ここでは、特殊な鍛錬、修養つまり「強健術」のような健康法は、健康上の欠陥がある場合だけに必要なものであり、それらを捨て去りこのままの世界に、このままの身体だけを以て生きることの重要性を語っています。それでは、このままの身体だけを以て生きるとはどのようなことなのでしょうか。
活力は滾々として、衷から湧き起こった。腕が鳴る。脚に力が籠る。精気溌剌として、無闇に働いて見たくなった。どんな仕事でも関はない。掃除、薪割り、草刈り、雑巾掛け、耕作、便所の汲み出し、どんな穢い仕事でも、遣って見たい。(聖中心道肥田式強健術 P.526)
これは、早朝に正中心の鍛錬を行った後の状態ですが、鍛錬そのものより肉体労働を無性にしてみたくなったとの証言です。この肉体労働についてさらに次のように言います。
アア、労働は、清楽である。至福である。そうして又、天理に協(かな)ったことである。人体が213個の骨片と、417個の筋肉とで、構成されて居(い)るのは。自由自在に、體を働かすことが、出来るようにとの、造物主の趣旨に由(よ)るものである。其れから、250万余からの汗腺があって、老廃物である塩分や、尿素等を排出させて、腎臓の働きを助けるのは、體を使って汗を出すのが、健康の根本であることを、示唆して居(い)るものでなくて、何であろうぞ。(聖中心道肥田式強健術 P.526)
あたりまえの肉体労働そのものが、天の理つまり自然の真にかなった「強健術」であり「天真療法」となるのです。人体そのものが、様々な動きをするように進化してきたのですから、その本来の動き、働きを自然に発揮させることこそが健康につながり、全身を使った肉体労働そのものが清楽であり至福となるのだとの実感を強く語っています。そして、この言葉のあとに、シベリアのオムスク要塞監獄に流刑囚となって送られ、そこで10年に渡って強制労働に従事したロシアの文豪ドストエフスキーの言葉を引用しています。
ロシヤの大文豪、ドストイエフスキーが、シベリヤの流刑地で、絶望に近い、悲惨な牢獄生活を、送って、居(お)った時酷暑の2ヶ月、イルテイツシュ河の岸辺から、建築中のバラックへ、朝から晩まで、毎日煉瓦を運ばされた。(中略)ドストイエフスキーは、静かに云った。『うむ、あの時、煉瓦(れんが)を引張った縄は、私の肌に食い込み、私の肩からは、生血が滴った。―だが、私にとって、其(そ)れは段々、愉快なものになって来た。今まで、痩(や)せて居った私の體(からだ)は、見る見る頑丈(がんじょう)になり、弱かった私の体力は非常な勢いで、強くなった。其(そ)の時まで、私は、生きようか、死のうかと、迷って居ったのだ。それが、どうだ。私が煉瓦を運べば運ぶ程、活(い)きて居(い)ることが何だか、面白くなって来た。其れから段々、私は生の讃美者になって仕舞(しま)った。そして強く感じた。どんな生活をして居ても、健(すこ)やかに生きると云うことは、無上の楽しみ、無上の幸福であると云うことを―』。(聖中心道肥田式強健術 P.527)
この文章は、ドストエフスキーの『死の家の記録』という作品からの引用と考えられます。現在出版されている翻訳では全く同じではありませんが同様の箇所を見つけることが出きます。(ドストエフスキー『死の家の記録』工藤精一郎訳 新潮世界文学11 P.237など)
そして春充は、肉体労働について次のようにも言います。
多くの人達が、まだ尊ばない労働は、かくも意義深く、有り難いものである。(聖中心道肥田式強健術 P.527)
だから私は、仕事のそれがなんであろうとも、楽しくって仕方がない。丈夫で働く。それ程の愉快と幸福とは無い。働く―誰にでも出来る仕事の中に、天は最上の楽と幸福と、そして真の祈祷と礼拝とを与えられていることが解ったとき、私の感激と衝動とは絶頂に達した。心を入れてやれば、飯も、煮付けも、思い通りにうまく出来る。心と仕事とは、一体となる。くだらん修養書なんかを読むより、いくら魂の糧(かて)になるかわからない。だから私は、鍋や釜を洗いながらも、愉快で楽しくって、微笑が頬に溢れる。
仕事そのものの中に、道があり、宗教があり、恩寵があり、幸福があり、寛喜(かんき)があることが直感されるからである。(山荘随筆 P.84〜85)
このように、はからいのある「強健術」を捨て、ただの肉体労働を行う中に真の「強健術」を見出すことになります。このことにつきましては、刊行予定『聖中心伝―肥田春充の生涯と強健術―』(晩年編)第7章第19節に詳細に論じましたのでご覧いただければと思います。
(写真は、八幡野の村人と畑を耕す春充〈体格改造法より〉)
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