mixiユーザー(id:1397418)

2019年03月31日03:36

329 view

バカすぎるオヤジ〜田山花袋

近代文学をもう一篇。
田山花袋の『蒲団』である。
これは、実は結構昔から読みたいと思っていながら月日が経ってしまい、この近代文学マイブームに便乗して一気に読んでみた。
まーなんつーか・・作品のあらすじは概ね知っていたんだが、原作にあたってみると、正直なんだこりゃ・・としか思えない。

物語は、作家・竹中時雄が、弟子にとった岡山出身の女学生の芳子に片恋慕するのだが、芳子は、そんな師匠の気持ちも知らずに同志社大学の学生と恋に落ちる。そんで、一緒に旅行したり無断外泊したりするのだが、時雄は嫉妬に狂い、芳子を破門し、岡山の実家に帰してしまう。
その後、性欲と悲哀と絶望に打ちひしがれて、芳子の使用していた蒲団のニオイをクンクン嗅ぎながら、さめざめ泣くという変態行為をしているところで、物語は終了。
話のみせどころは、作家・竹中時雄の内面の恋心というか性欲と、社会的体面によりあくまで師匠であり保護者である立場から、19歳の女子の「不純異性交遊」を嗜めるというところとの葛藤なのだが、この作品が描かれた明治40年という時代は、まだ学生で結婚もしていない分際で、男と女がセックスするというのが道徳的タブーの時代だった。
ここがまた明治時代の面白いところで、封建時代はそもそも自由恋愛というのが存在せず(本当はあったんだけどね)、近代化が進む明治時代に、女子の参政権などとともに、自由恋愛を謳歌してもよいような風潮になってきた。
主人公の時雄は34,5歳の設定で、ちょうどそういった価値観が変わる過渡期の人間であり、弟子に対する恋愛感情を起こすなど言語道断という世代。それに対して、芳子は、その当時は新しい価値観の人間で自由恋愛を謳歌という世代。そこから、時雄と芳子の微妙な軋轢が発生して、物語は(時雄にとって)悲劇に進んでいく。
んで、その時雄の内面を赤裸々に描いたということで、当時の文壇ではセンセーショナルを巻き起こしたということなんだが、時雄自体は妻もあり子も3人いるといういわば家庭持ちなのである。
その内面の赤裸々な葛藤を告白されても、そもそもはちっちゃい子が3人もいて、作家という浮き草稼業をやっていて、いつ食えなくなるかわからない商売であるため、家族のために奮闘努力しなきゃいけない立場なのである。正直、そんな「ウチにきた弟子の女学生を好きになっちゃった。毎日モンモンとしちゃう俺。オナニーがやめられない」なんて言われても「バカじゃないか?こいつ」としか思えない。
しかも時雄はかなりのひとでなしで、芳子が家に来てから、妻が鬱陶しくなり、その時3人目の子をお腹に宿していた妻に対して、「子供が死産してそれが原因で妻が死んでしまえばあの子を堂々とモノにできるなあ」などと真面目に考えていたりする。
時には、どうすることもできない感情をモンモンと抱えて、夜、居候している芳子の部屋に夜這いをかけてみようかな、意外とうまくいっちゃうかも、、なんていう妄想をしている。
まあ、結局、実行に移していないし、妻子の死を想像してもそれを実際に言ったりしたわけじゃないので、「想像の自由」っちゃそうなんだけど、それこそ、そんなオナニーの妄想を淡々と告白されても、やっぱり「こいつバカじゃないの?」としか思えない。
確かに、センセーショナルな小説ではあるんだけど、ウーン・・駄作としか思えない。

田山花袋というのは、自然主義文学に属しているといわれ、同じ自然主義文学に島崎藤村やら国木田独歩やらがいる。
当時の自然主義文学とは、見たものや内面をデフォルメせずにありのままを描くというもので、要はタブーだとかなんだとかを気にせず、描きたいものを描いちゃえというもの。
確かに田山花袋は、自己の内面をここまで赤裸々に描いたという面では、自然主義文学の最たるものと言えるが、それはそのまま、田山花袋自身が、こういうことをいつも考えているんだな、こういう性癖なんだな、ということになる。だから、読んでいて田山花袋のオナニーをみせられている気分になってきて、なんともアホ臭い。
『蒲団』は、当時の文学界に旋風を巻き起こし田山花袋が一気に売れるようになった出世作であるそうなんだが、調べてみると、『蒲団』のプレ作品と呼べるべき短編をその前に発表している。
それは『少女病』というタイトルで、作品のあらすじを見てみると、こちらの内容はより変態度が濃い。
主人公は37歳の妻子持ちのおっさん(これも田山花袋自身なんだろうな)で、出版社に勤めていて、電車通勤している。毎日電車の中に乗って来る少女たち(20歳くらいまでの女)に胸をときめかせて、近くにいって気づかれないようにニオイをスーハースーハーしながら妄想に耽り、オナニーしているという内容。同僚からも「あいつオナニーしすぎでバカになってるんだよ」なんて陰口を叩かれるんだが、妄想は膨らむ一方で、「妻子がいたって関係ない!俺は少女を自分のモノにしたいんだーー!」と妄想が暴走を始めたところで、走行中の電車から落ちてしまい(当時は市電でドアなんてついていない)、ちょうどやってきた反対側を走る電車に轢かれて死んでしまうところで物語終了。
もはや毒の効いたコントとしか思えないんだが、僕は読んでみたくて仕方ない。アマゾンで取り寄せようかなと思っているくらいだ。
まー要は、近代文学史に残る自然主義文学の旗手なんて言われても、僕にはマヌケなオナニストにしか見えてこないのである。
あんまりマヌケでむしろ、楽しくなってしまうくらいだが、実際にこういう小説って近代以前にはなかったのかなあ。
こいつら自然主義文学なんてカッコつけているアホどもも、別にオリジナルでそういう路線を創作したわけではなく、海外文学のツルゲーネフだとかゾラだとかモーパッサンだとかの猿真似らしいんだけど、僕は田山花袋だけを見ると、近代以前に日本文学に存在しているんじゃないかって思える。
例えば、近世(江戸時代)には、人妻と不義密通するような物語が春本などでたくさん出ていたし、それこそ「源氏物語」なんかは性欲との葛藤の物語としては最高峰だろう。
近世文学のその手の本は、戯作本として明治以降も継続して出版され庶民の娯楽として親しまれていたらしいが、それは猥雑であり底も浅いので文学史に載るような文学としては認められなかったんだろうけど、田山花袋なんかは猥雑どころか中年に差し掛かるオヤジのオナニー妄想を晒しているだけなので、そのての戯作本よりも価値低いんじゃないの?と思ってしまう。

まあまあ、とはいいつつこれはこれで、そのバカさ加減が面白いっちゃ面白い。
でもって、近代文学の担い手って、実はひとでなしでかつ情けない奴が多かったんじゃないかなーと思えてきた。
今度はその路線で調べてみるか。

0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2019年03月>
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31      

最近の日記

もっと見る