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2019年03月01日00:18

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芸術とは

■「会田誠さんらの講義で苦痛受けた」女性受講生が「セクハラ」で京都造形大を提訴
(弁護士ドットコム - 02月27日 16:21)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=149&from=diary&id=5516161

会田誠って、若かりし日に美術展を観にいったんだよなあ。
その時思ったのは、「この人、天才だなあ・・」ということ。
自分には全く芸術の才能も技量もないんだが、それでもないものねだり的に漠然と憧れていた時期があるんだが、こういう人が、暢気にサラっと個展を開いて、それがこんだけの才能とパワーを誇示しているんだから、自分には芸術の世界は無縁だなーと思った。
とりわけ、その後熱狂的なファンになったわけじゃないので、その後特に会田誠を追いかけたわけではないのだが、しばしば思い出しはしていた。
その作風は、エログロナンセンスが根底にありつつも、哀しくなるほどの強烈なユーモアに溢れていて、さらに現代アートの様式をことごとく踏襲しながら、自分の色をだしているというもの。
ポップアートだのコンセプチュアルアートなのを、踏襲している作品などがあるんだが、「真面目に」それらの作品を創作しているわけではない。
「コンセプチュアルアートって、こんな感じなんでしょ?」
といわんばかりに、そのスタイルを真似してそれっぽくやっているという感じだった。こういうところの強烈な皮肉なんかも凄く面白かった。
中でも圧巻だったのが、小学1年から6年まで、図画工作の授業で描かされた絵を廊下に展示しているようなコンセプトで、水彩画を展示しているんだが、1年生だったらこんな絵っぽい、2年生だったらこんな絵っぽい・・というのを見事に描いていて、「こりゃーすげえなー」って感動した。わざと、小学生が描きそうな絵を、プロの技で再現している。こういう発想の新しさも素晴らしかった。

さて今回、久しぶりに会田誠の名前を聞いたと思ったら、なんとセクハラで訴えられるとのこと(厳密には大学が訴えられるのだが)。
それが京都造形大学の公開講座で行った講座が、会田の作品を教材に使ったため、その強烈なエログロに、「セクハラだ!」と怒り狂った聴講生がいたとのこと。
まーSNSなどでは、このセクハラ騒ぎ立てる女が正気の沙汰じゃないという意見が大多数だったし、もはやここまでおバカちゃんだと何も言う気はしないが、ただそのSNSの投稿をみていてちょいと気になったこと。
会田誠は、確かに好き嫌いばっくり別れる芸術家で、嫌いが大多数を占めるんだけど、会田のような変態で狂気じみた作品を芸術と認めるのがそもそもおかしいような意見もだいぶ見受けられた。
そこで、先日の音楽の話じゃないが、芸術とは何か、についてちょっと真面目に考えてみたい。

芸術が、個人の精神を作品に転化するようになったのって、せいぜい19世紀くらいからだろう。まだ200年も経っていないくらいじゃないか?
その昔は、宗教画など、聖書の内容を文盲な庶民にもわかりやすく提供するといったもので、現代において芸術家と称されるような、ダ・ビンチやらルーベンスやらは、どっちかいうと絵画職人と呼んだほうが良いと思う。
日本においては、浮世絵などが顕著で、あれは役者絵だの風景画だのは、パンフレットなどに使う商業的なもの。春画はエロ本である。写真がない当時、写真の代わりになるものを職業絵師が提供していた。
現代において、それが歴史的価値、宗教的価値を帯びることによって、ようやく芸術足りえたわけだが、その作品が提供された当時は、単なる商品でしかない。
じゃあ芸術は、というと、個人の内面や精神性を表現したものという意味で言えば、印象派あたりが最初になるのかなあ。
20世紀になり、キュビズム、ダダイズム、シュルレアリズムといった、個人の内面でも、より無意識世界に近づいていくような作品が現れる。ここら辺にいくと、「これが芸術だ!」と言われれば、「ああ芸術なんだな」という風に思うしかなく、何が良いのかも正直よくわからん。
僕は、ひとつの解釈を与えてくれるのは、精神分析学だと思う。
芸術が個人の内面へ向かっていく時期に精神分析学が登場するのも、何か面白いが、フロイトの無意識、ユングの集合無意識に埋まっている衝動、情念などを、創作の才能を持って生まれた者が、作品というカタチに変えて行く。それを芸術というのだろうと僕なりに定義している。
そのカタチは、絵画でもいいし、音楽でもいい、詩や文学などでもいい。
ランボーやゲーテなどの文字で表現する人たちの作品なんかも、読んでいて吐き気しか催さないようなえげつない内容ばかりだが、それでも人間の表層的ではない深層にある真実を表現するものとして、作品の価値は高いだろう。
そう考えると、人間の精神状態を真摯に解放した作品が芸術であるならば、深層に眠っている無意識から湧き上がる、論理化不能なものが作品へと昇華されているわけだから、芸術はエログロを伴うものではないだろうか。
それが、一般人にとって不快感を催すものであっても、無意識にある根源的衝動を揺り動かすものであれば、芸術としての価値はある。
もちろん、美しさの追及も芸術のひとつだろうし、水墨画のようにとことん削られた美を追求された作品も素晴らしいし、M.C.エッシャーのように、幾何学をとことん追及していき数学的美を生み出すものも素晴らしい。
僕は、会田誠も好きだが、水墨画やM.C,エッシャーも好きだ。
会田作品のように、無意識の根源まで遡って湧き出る欲動をカタチにする場合は、当然のごとく、狂気の世界になる。エロく、おぞましく、残酷であり、加虐嗜好または被虐嗜好があり、死があり、殺意があり、、
それを現実社会に持っていったら単なる犯罪者である。
よく言われるように、芸術家の精神性と、サイコパス、シリアルキラーの精神性は紙一重である。だが芸術家の真価は、その無意識に眠る狂気を、犯罪から回避するために作品に昇華させるというところにあるのではないだろうか。

で、今回の事件に戻って。
そのような芸術の本質に触れる講義があったわけだから、講義を受けた諸氏は、その貴重な体験をありがたく思うべきだろう。
もちろん、個別に嫌悪感催すのなら、受講を放棄するのはかまわない。
だが、仮にも芸術を学ぶ最高教育機関の大学で、その本質を学ばずに、教材として使った講師の作品や、講師の発言が嫌だからという理由で、学ぶことを放棄するどころか、あろうことかセクハラで訴えるなんて、物事を知らなさすぎる。今後、芸術に携わる仕事などしないほうが良いだろう。
大学で学ぶ学問というのは、そもそも真実を追究する場である。
だから、一般の社会ではタブーとされている内容について、真摯に突き詰めていったりする。
僕が大学の頃受けた、フロイトの講読の演習なんて、教授は学生に近親相姦だの食人肉だのの話を大真面目にやっていたし、社会学の授業では、「キリスト教の原罪とされてきたもの=同性愛、アナルセックス、フェラチオ」などと教授は板書していた。
まあ今となっては、その刺激的な単語にただただ性欲ありあまる若かりし大学生の僕は興奮していただけで、何についての講義だったかがちっとも思い出せないんだが、当時の学生は、女子生徒を含めて、そんなことで怒り出す人など1人もいなかったし、熱心に授業を聴いていた。
芸術や学問というのは、真の意味で、制約から人為的に解放される自由なものだからこそ素晴らしいのだ。
会田誠はあざとくもあるが、それを演出的に表現できるからこそ、素晴らしいのである。

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