mixiユーザー(id:6393203)

2019年02月08日18:58

68 view

妖怪人間ベム完全新作「BEM」放送決定 声優に小西克幸、M・A・O、小野賢章

妖怪人間ベム完全新作「BEM」放送決定 声優に小西克幸、M・A・O、小野賢章
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=14&from=diary&id=5489574

>>>>>
2018年に50周年を迎えた「妖怪人間ベム」の完全新作アニメーション「BEM」が今年放送されることが決定し、ベム・ベラ・ベロ役の声優をはじめ、メインスタッフが発表された。プロモーション映像も公開されている。


 「妖怪人間ベム」は1968年に放送されたテレビアニメで、正義の心を持った3人の妖怪人間(ベム・ベラ・ベロ)が、人間のために悪と戦う姿を描いた作品。「早く人間になりたい!」と思いながらも、妖怪である故に人から決して受け入れられることはない、3人をめぐる切ないストーリーは多くの子供たちの心をつかみ、アニメ・実写ドラマとさまざま形でリメイクされてきた。


 2019年に再び蘇る「BEM」では、3人のイメージも一新。キャラクター原案を「LAST EXILE ラストエグザイル」などの村田蓮爾(れんじ)が務め、いずれも現代的なスタイルへと生まれ変わった。ベムは小西克幸、ベラはM・A・O、ベロは小野賢章と、いずれも人気声優が声を担当する。


 劇中では、「強さ」「まっすぐさ」「切なさ」といった3人の普遍的な魅力はそのままに、舞台・キャラクター設定を一新した、全く新しい妖怪人間ベムの物語がつづられるとのこと。ビジュアルの変更により、それぞれの関係性に変化が訪れるのか。シリーズ構成は「ポケットモンスター」シリーズなどの冨岡淳広、監督は「クロスファイト ビーダマン」などの小高義規。アニメーション制作はランドック・スタジオが担当する。(編集部・入倉功一)
>>>>>

この作品はほとんど見たことがないので、あまり語ることはないのだが、
「早く人間になりたい!」

という言動から、おそらく差別や人権に対する思想性がその奥底にあるのは想像に容易い。そのうえで、この作品は妖怪は人間であるか、否、という大前提をベースに作話を作成したと思われる。

同じ構造の作品はテラへもそうだろうし、アメリカのドラマにもHEROESや、アベンジャーズシビル・ウォーなど異質だけど人間みたいな作品がある。人間を超えた存在に対して、人間が恐怖する代表作はデビルマンだと思うが、ベムが画期的なのは、個人レベルでの「人間になりたい」である。集団や種としての要望ではない。

ところが、個人レベルで「人間になりたい」と感じている人は、今の日本にもたくさんいる。貧困で暮らす人、DVに耐えている人、海外から働くに来た人、日本人だって下劣な連中は幾らでもいる。別に妖怪である必要もないというのがミソであって、この現代日本で、さて今さら妖怪にそんなセリフを言わて、どんな価値があるか。製作者たちがそこを考えないとは思えない。

最初の作品が放送された当時だって日本には貧しい人はいた。そういう世相に対して、子供たちは確かに妖怪よりはましだよな、という健全な感性を持っていた。だから笑っていられた。残酷にも冷酷に社会をそう切り取りながら遊んでいたのである。

それと比べると、今の時代は難しい。ポリティカルコレクトネスのみならずホワイトフェイス、ブラックフェイスさえ笑い飛ばせない社会的要請がある。人間とはなんだという定義さえ社会的に許容できる範囲のものは実は難しい。

日本でもヘイトスピーチが真っ盛りとなり、二重国籍が政治的問題になり、アメリカの移民は不法、合法を問わす混乱している。国籍を持てないロヒンギャに対する迫害、ウイグル自治区の収容所問題、日本の入国者収容所での不当な扱いなど、世界には人間扱いされない人間は幾らでもいる。

近代国家における権利は、人間に生来のものとして定義した。故にそれは例え侵害されたとしてもないものではない。だから、それは何かによって守られなければならない。権利を持っていても違反状態は起きうるから、なんとかしないといけない。これが基本コンセプトである。

その多くは国家に帰属する問題となり、国家によって守られることが現実解となるのだが、だからといって国家があれば守られるわけではない。国家が侵害する。それも世界では日常茶飯事である。

そもそも妖怪が人間になるなら住民票が必要である。税金も払う必要がある。住居もいる。そのためには家を借りなければならないが、ベムベラベロにはおそらく保証人がいない。

そういう人が借りられる家屋も当然あしNGOなどによる支援もあろうが、条件は悪い。人間になったら彼らも法律も守る必要がある。

妖怪である頃は日本国憲法によって保護される対象ではなかったはずである。シンゴジラではないが、一般的な妖怪なら恐らく鳥獣保護法の対象であろう。人間に捕まったら間違いなく一体は解剖行きである。

もしいまネアンデルタール人やフローレス原人がいても、恐らく同種の人としては扱われない。ほぼ間違いなく動物園で飼育される対象である。ネアンデルタール人が少し微妙なのは知能が高いからであるが、それでも奴隷化されるだろうと予想する。

では、人間の価値は「知能」で決めてよいものなのか?これは可なり真っ黒な議論であって、寝たきりの障碍者を殺して回った人は、恐らくそう短絡に結論したに違いない。

実際、学歴社会では、緩やかではあるが、基本的に知能レベルと社会階層を一致させる運動である。低学歴は社会的には不利な状況に置かれる。そういう国家は緩やかに停滞することは中国の歴史により確かであるが、どの国家もそのような選抜方式を採用している。

人類の成功体験は幾つかあるが、直近では産業革命が最大のものだろう。その最終的な結実としての、戦後のアメリカである。現在社会は、その時代に構築された様々な理想、権利、理念に基づく。

そして、どうやらそれでは今後はダメらしいという曲がり角にある。現在は端境期として、経済が著しく突出した価値となっている。どんな理念も経済的に貧弱であるなら採用する価値がない、この考えを支えているのが、蓄財による社会的なアドバンテージと、これを企業、一族、家族が相続するというルールに基づく。

すべてがこのルールに基づいて、自分の行動を決定する。当然だが、このルールに異を唱えても無駄である。これは河の流れ、潮の流れなのだから、逆らったり変えようするのを無駄とは言わないが、多くの人の流れとは異なったものになる。

ベムベラベロはフランケンシュタインの系譜にある作品である。そこに妖怪という「個」と人間という「社会」の関係性が面白い点と思われる。

人造人間には様々な作品がある。アンドロイド、機械人間、DNAの改変など、流派も沢山ある。どの作品も最終的には人間とは何かというものに通ずる。

多くの作品はそれらを人間の形で登場させる。では、姿形さえ人間ならそれは人間なのか、といえば、否である。ハカイダーの悲哀もそこにあったわけだ。

当然だが、姿かたちの違いで決めるのなら、皮膚の色で人間でないと見なすのもその一種だし、DNAで見分けれればよいと言い出す人ももうじき出現するだろう。人間から進化した種のDNAは人間とは異なるはずだが。


それが馬鹿らしいと言っている人は、今度は文化だので人間を決めだすだろう。そうして、姿形だけでは人間と決めらえないとなれば、最終的にはイルカやクジラも人間ではないのか、という議論は避けて通れない。

そういうややこしいだが、科学的知見も飽和状態にある社会で、いまさらなぜ妖怪なのか。なぜいまベムベラベロなのか。本作からの回答は興味深いはずである。

0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2019年02月>
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
2425262728