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2019年02月03日07:31

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歴史街道


「物資が充足し、欲望が満たされれば、人間は利己から利他へに向かう」戦後、山形と秋田の県境にある西山農場で開墾生活を送った石原莞爾は、敗戦で廃墟と化した日本のこれからの進路を、しっかりと見据えていた。ともに開墾生活を送った筆者の目に、晩年の石原はどう映っていたのか。

〜自給自足の西山農業生活〜秋には石原莞爾将軍をお迎えするから、西山に来て働いてはどうか?母親の勧めで、庄内地区の東亜連盟の幹部である桐谷誠さんにお会いすると、桐谷さんが経営する西山牧場に誘われました。昭和21年(1946)3月のことで、私は旧制酒田中学を卒業したばかりの17歳でした。

桐谷さんは西山(現、山形県遊佐町)あたりの山林を所有していましたが、石原将軍の「村づくり」の考え方に共鳴し、山林の比較的平坦な場所を選んで、昭和19年(1944)頃から開墾を始めていたのです。私も早速、西山農場の開墾に参加する事になりました。

当時、西山農場にいたのは、桐谷誠さんと奥様の敏子さん、桐谷さんの弟 武さんほか10名に満たない数です。私は畜舎とも35坪位の二階建ての家に数人で住み込みましたが、麓の村から通ってくる人も2、3いました。

さて、秋には石原将軍とご一緒できるというので、6月頃から将軍のお住居を建て始めました。15坪ほどのごく質素なものです。石原将軍が、「都市解体、農工一体、簡素生活」という三原則に基づく、新時代の「村づくり」を計画して西山に転居して来られたのは、10月に入ってからのことです。

私は1年前の9月に新庄で将軍の講演をお聴きしていましたので、お顔は存じておりました。しかし、初めて身近に接した印象は、決して偉ぶることがなく、まるですべてを達観された高僧のような雰囲気のお方であると感じました。

農場での生活は、朝一番の畑の水遣りから始まり、荒地の開墾が主労働でした。掘れどもつきぬ松の根との格闘は、休息にかぶりついた西瓜の美味さと相まって、今では懐かしい昔語りです。栽培作物は薩摩芋、西瓜、馬鈴薯、燕麦、瓜、苺など。

薩摩芋や西瓜は、農場の唯一の現金収入源であり、特に薩摩芋は、米や肥料の交換物として、当時貴重品です。その他、牛一頭、山羊一頭、鶏数羽など人畜同居、見よう見まねの自給自足でした。筆者・仲條立一
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