高木善之さんの「本当の自分」(地球村出版)に次のことが書いてありました。
タイタニック号が氷山に衝突したとき、浸水が続いているのに船長は「沈むはずはない」と判断、一等船客はパーティを続けていました。最初に浸水に気づいたのは三等船客で、もっとも遅かったのは一等船客です。一般的に、恵まれた者ほど現状認識ができません。
救命ボートには全員乗れないと知らされたときの人間ドラマ・・・・・。
自分を犠牲にして子どもを救おうとした人、人を押しのけて自分だけ助かろうとした人、あきらめてなにもしなかった人、など・・・・・。
これを読んでいて、イザという時の人間のありかたについて二つの実話を思い出しました。
◆身を投げ出して乗客の命を救った国鉄職員の長野政雄さん
三浦綾子さんの「塩狩峠」は長野政雄さんをモデルにして書かれた小説ですが、そのハイライトの場面を要約します。
永野信夫は鉄道員。朝早い汽車は満席だったが、この1時間の後に、恐ろしい事件が待ち受けていようとは、誰一人想像すらしなかった。
汽車は今、塩狩峠の頂上に近づいた。この塩狩峠は、旭川から北へ約30キロの地点にあるかなり険しい峠で、列車はふもとの駅から後端にも機関車をつけ、あえぎ、あえぎ上るのである。
「おや、この汽車は後ろに機関車がついていませんよ」
「ああ、車両が少ないからでしょうね。しかし、うしろに機関車がつかないで上るのは、珍しいですね」
と信夫はあいづちを打った。
その時、一瞬客車がガクンと止まったような気がした。が、次の瞬間、客車は、妙に頼りなくゆっくり後ずさりを始めた。体に伝わっていた機関車の震動がぶっつりと途絶えた。
と見る間に、客車は加速的に速さを増した。
「あっ、汽車が離れた!」
その声が、谷底へでも落ちていくような恐怖を誘った。誰もが総立ちになって椅子にしがみついた。声もなく恐怖にゆがんだ顔があるだけだった。
信夫は、デッキにハンドルブレーキのあることがひらめいた。
さっと立ち上がって信夫は飛びつくようにデッキのハンドルブレーキに手をかけた。信夫は氷のように冷たいハンドルブレーキのハンドルを、力いっぱい回し始めた。
かなり速度がゆるんで、信夫はもう一息だと思った。だが、どうしたことか、ブレーキはそれ以上きかなかったのである。
信夫は渾身の力をふるってハンドルを回した。だが、なんとしてもそれ以上客車の速度は落ちなかった。暴走すれば転覆は必至である。
たった今この速度なら、自分の体でこの車両を止めることができると、信夫はとっさに判断した。一瞬、家族の顔が大きく目に浮かんだ。それを振り払うように、信夫は目をつむった。と、次の瞬間、信夫の手はハンドルブレーキから離れ、彼の体は線路を目がけて飛び降りていた。
客車は無気味にきしんで、信夫の上に乗り上げ、遂に完全に停止した。
◆身を投げ出して乗客の命を救ったバスの車掌さん・・・鬼塚道雄氏
サンタサンタさんの日記「身を投げ出して乗客の命を救ったバスの車掌さん・・・鬼塚道雄」より抜粋、要約します。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1479184978&owner_id=10909855
長崎県の時津町に打坂(うちざかと)呼ばれる急勾配の坂があります。
この坂の途中に、救命地蔵と呼ばれるお地蔵さんがあります。
ここに、身を挺して大惨事をくいとめ、乗客30有余名の命を救った鬼塚道男さんが祀られています。
終戦後、まだ間もない昭和22(1947)年9月1日午前8時のことです。
大瀬戸発、長崎行きのバスは満員の乗客を乗せて、打坂峠を登っていました。
当時のバスは、車体の後ろに大きな釜(かま)をつけて、木炭を焚いて走る「木炭バス」です。
木炭バスというのは今のようなガソリンではなく、車体の後ろに大きな釜を付け、いまで言ったら備長炭のような炭を焚(た)いて走るバスです。
性能はいちおう45馬力とされているのだけれど、釜の炊きが悪いと10馬力出るかどうかで、それで30人乗りのバスを走らせた。
バスの後ろにドラム缶みたいな釜を取り付け、そこに薪(まき)をいっぱい入れて釜だきしてエンジンを走らせた。それでもいちおう、薪をいっぱいにすれば50kmくらいの距離は走れたそうです。
馬力は、いまでいったら原チャリ程度です。その非力なエンジンで、30人も乗ったら、満員になる小さなバスを走らせた。
そんな無茶な、なんて言ったらいけません。
ABCD包囲網によって経済封鎖された日本は、当時でも年間2千万バレルの石油が必要だったのに、戦時中の昭和19年には164万バレルしか輸入がなく、昭和20年に至っては、輸入量がゼロなのです。木炭だって、走らないよりはいい。
一方、この頃の打坂は、もちろん舗装などなく、道は狭く、くねくねと曲がり、勾配は20度もあったそうです。バスの運転手たちからは「地獄坂」と呼ばれていた。それくらい怖い坂だった。
この道を、大瀬戸から長崎まで一日一回往復のバスが通行していました。
車掌として勤務していた鬼塚道男(当時21歳)は、朝8時の大瀬戸発のバスに乗務するため、午前6時に木炭をおこして準備をし、火の調子を整えました。
木炭バスというのはエンジンが温まるまで走れないし、走ってもよくエンジンが止まり、その度に釜のなかの火を長い鉄の棒で突いて木炭をならしながら走ります。
釜の火の調子を整えることが、木炭バスの車掌の仕事だったのです。
そのバスが坂の半ばに差し掛かったときのことです。
突然エンジンが故障し、バスが停まってしまいました。
運転手は直ぐにブレーキを踏みましたが、ブレーキが利かない。
サイドブレーキも利かない。 エンジンもかかりません。前進ギアも入らない。
四重のトラブルです。 ギアシャフトがはずれたのです。
上り坂でいったん停止したバスは、ズルズルと坂道を後退し始めます。
運転手はバスを止めようと必死になります。
しかしバスはドンドン下がって行く。
坂道です。曲がりくねっている。乗客は30人あまり。
運転手は鬼塚車掌に向かって、
「鬼塚!直ぐ降りろ!石ころでん、棒きれでん、なんでんよかけん車の下に敷け!」
と絶叫します。
鬼塚車掌はバスから飛び降り、近くにあるものを片っ端から車輪の後ろに置いて、バスを止めようとしました。
しかし急な下り坂で加速がついたバスの車輪は、石を粉々に砕(くだ)き、あと数メートルで高さ20メートルの険しい崖(がけ)のというところまで迫ります。
崖からバスが落ちたら、乗客の命がない!
乗客はなすすべもなくパニックになります。
「こいは、おしまいばい!」
乗客皆が、そう思ったとき、バスは崖っぷちギリギリのところで止まりました。
運転手と乗客はホッとして「ヨカッタ、ヨカッタ」と我にかえります。
運転手はバスから降り、「鬼塚!どこに、おっとか!」と叫びます。
乗客たちも、降りてきた。
ひとりの乗客が、「バスの後の車輪に、人がはさまっとる」と指さしました。
車輪の下に、鬼塚車掌が横たわっていました。
彼は自分の体を輪止めにしてバスを止め、崖からの転落を防いだのです。
時刻は朝の10時過ぎです。
自転車に乗った人が「打坂峠でバスが落ちた。早く救助に!」と長崎バスの時津営業所に駆け込みました。
時津営業所の高峰貞介は、すぐに木炭トラックに乗って急いで現場に駆けつけました。
すると、バスは崖っぷちギリギリのところで止まっていて、運転手が一人真っ青な顔をして、ジャッキでバスの車体を持ち上げていました。
高峯さんは後に事故の様子と鬼塚さんについて次のように語っています。
もうお客は誰もおらんで、運転手が一人、真っ青か顔ばしてジャッキで車体を持ち上げとったですたい。
「道男が飛び込んで輪止めになったばい。道男、道男」って涙流しとったです。
自分で輪止めにならんばいかんと思うたとじゃなかでしょうか。
丸うなって飛び込んで。
道雄の体をバスの下から引きずり出して、木炭トラックの荷台に乗せて、時津の病院に運んで、先生早く来てくれ、早く早くって大声を出しました。
その晩遅くに、みかん箱でつくった祭壇(さいだん)と一緒に仏さんを時津営業所に運んで来たのです。
(以上)
以上の二つ事例読んで人間は、イザという時には、神にも畜生にも両極に分かれることができるものだと、つくづく思いました。
非常時において、他の人の命を救うために自分の命を犠牲する人もあり、他を押しのけてでも助かろうという人もあります。
イザという時こそ、人間の本当の値打ちというものが試されるのである、と思いました。
もし、日本が深刻な食糧難で無政府状態になったとき、限られた食糧を前にして私はどういう態度が取れるだろうか・・・、と考えることがあります。
エゴ丸出しになって、人を押のけ血みどろになって奪い合うだろうか?
あるいは、どんな飢餓の状態にあっても、他に譲るという愛と寛容の精神を最後まで貫くことが出来るだろうか?
私は自信がありません。
現在の、この平和な時こそ、イザという時のことを頭において、自分を訓練することの大切さを感じました。
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