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2018年12月11日10:18

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12月11日

 茂木田さんは水の綺麗なところに棲む生き物みたいに繊細で注意深い人だ。きっと彼の中には物事を精査するネットが、細やかに綿密に張り巡らされてある。だから、たとえスナック菓子ひとつをつまむにしても、すんなりとはいかない。それがどんな成分でできているのか、夕飯に差し支えない時刻か、指が汚れてしまうのではないか。さまざまな角度から考察したうえで、ようやくそれを口にする。あるいは今回は縁がなかったとして遠ざける。
 どれだけのものが茂木田さんを通過できるのかはわからない。もしかすると、地球上のほとんどの物事はそこにうずたかく積み上げられ放置されるかもしれない。でもそれでは生活ができないので、彼はこれらをしぶしぶ受け入れる。何かを食べるにしてもテレビを見るにしても、「ほんとうは嫌なのだけど」といった皺が眉間に刻まれている。
一見、それは身動きのとりにくい、とても息苦しい生き方に思える。でも茂木田さんに言わせると、「俺がふつうで、お前が楽観的すぎる」ということらしい。これまでも、たびたびぼくのだらしない所作、野放図な言動について注意をうけた。つまり彼にとれば、ぼくの人間性も通過させられないものの一つであるわけだ。
 先日、職場から研修をうけるように言われ、会場へと向かった。てっきり自分ひとりと思い込んでいたが、室内に茂木田さんの姿を発見した。ぼくが遠くから手を振ると、彼は親指と人差し指の2本を立てた変な手の振り方をした。あえては聞かなかったけれど、たぶん彼の無意識がぼくの登場を2点と評価したのではないかと思った。隣の席に座ってよいものか迷ったが、他に空席もみあたらず、おずおずとそこに腰を下ろした。
 講義はやたらと長くだらだらとつづいた。内容は退屈なもので、なおかつ講師の声もくぐもって聞き取りにくい。ほどなくしてぼくのもとへ約束していたみたいに眠気がおとずれた。それは半ば強引にぼくから意識をうばい取り、そのかわりに特有の気だるい汁で脳みそを浸していった。まぶたが閉じていき、講師の顔がすぼまっていく。でもぼくはこれを何とかして堪えた。ほっぺたの肉を噛み、太ももを爪でつねったりして。もちろん講義を聴くためではなく、となりに茂木田さんが座っていたからだ。ぼくは茂木田さんという精査装置を恐れていた。やっぱり、はなから否定されるとわかっていても、弾かれたときの痛みが和らぐわけではない。事前には緊張があり、事後には相応の傷を負う。だからぼくは姿勢のいい受講生として過ごし、茂木田さんのセンサーに触れないように息を潜めた。
 そうしてなんとか目を見開いていると、ふと、隣の茂木田さんがカクカクしていることに気が付いた。てっきり講義に相槌でもうっているものかと思ったが、見やると茂木田さんは口を半開きにしてねむっていた。まるで首の座わらない赤ちゃんみたく危うげに頭を揺らせている。ぼくはしばらくそれを見つめた。ひどく間抜けな寝顔だった。きっと茂木田さんは壇上の講師を通過させることができず、最大級の拒絶をしているのだろうと思った。
 帰り道、茂木田さんからコーヒーでも飲まないかと誘われた。近くにあった喫茶店へすすみ、席に着く。茂木田さんは水を一口のむと、「さっきはたまらず居眠りしてしまったよ」と言った。これにぼくはハッとなる。もしかして茂木田さんは今からオーディションをはじめるつもりではないだろうか、と思った。ぼくを見つめる表情のない目、足を組み気だるく椅子にもたれる感じ。ぬけぬけと付いて来てしまったが、茂木田さんはここで一度ぼくを飲み込んでみるつもりかもしれない。だとしたら、悠々とコーヒーゼリーなんか頼んでいる場合ではなかった。もしここで茂木田さんに居眠りでもされたら、ぼくはひどい傷を負うことになる。致死的な出血量。失血死。下手をすれば、生きる指針を見失ってしまうことになりかねない。
 ぼくはそこで、以前にUFOを見た話を全力でした。じっさいは空に小さな白い点が浮かんでいた程度のことを山盛りに誇張して、まくしたてた。もしかすると、ぼくの中で自分を宇宙規模に見せたいという心理がはたらいたのかもしれない。でも茂木田さんは、コーヒーをひとくちすすり「そういうの信じないんだよね、俺」とつめたく言い放った。ぼくは「あ」と言って、しゃべるのをやめた。鈍器で殴らたような衝撃、舌に鉄の味がした。
「ただし、」と茂木田さんは続けた。ぼくは顔をあげる。
 「宇宙人は、いると思うけどね」。
 茂木田さんはまっすぐにぼくを見ていた。よく意味がわからなかったのでコーヒーゼリーをたべた。

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