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2018年10月26日19:08

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紅葉を見る 続き

北海道開拓の村の出口の脇に、自分の誕生日の北海道新聞を400円でプリントアウトする機械が置いてあった。

昔の新聞は図書館にゆけば閲覧でき、自分の生まれた日の北海道新聞は見た事がある。
しかし純子は見たことが無いと言うのでプリントアウトすることにする。

純子の誕生日、昭和31年7月26日を打ち込むとトップか番組欄かの選択をする画面になる。
一応トップ画面を選ぶ。

重光 葵 外務大臣が領土問題解決のためにモスクワ行の飛行機に乗り込む写真がトップだった。

このときの交渉で重光は歯舞、色丹の二島のみの返還というソ連案を受け入れるしか無いと鳩山一郎に打電するが鳩山はこれを拒否、その後北方領土問題は進展なく現在に至る。

さして面白くもない記事ばかりで、これなら番組欄にすれば良かった。

題字下の広告欄に「札幌モータース販売KK」のオートバイの広告。

「IMC」のR型のオートバイの広告が載っている。

125CCと250CCの2サイクルエンジンと、250CCのOHV4サイクルエンジンがあったらしい。


IMCなんて会社聞いたことがない。

調べてみたら「伊藤機関工業」という1950年から1962年まで名古屋市に存在した会社らしい。

戦後、旧日本軍の戦車に使われていたバッテリー充電用の発電機を自転車に取り付け販売を始めた。

https://www.google.com/search?q=%EF%BC%A9%EF%BC%AD%EF%BC%A3%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%90%E3%82%A4%EF%BC%B2%E5%9E%8B&client=firefox-b-ab&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=2ahUKEwjcy4zVpaPeAhXGBIgKHRG0DDoQsAR6BAgGEAE&biw=1488&bih=966


本田宗一郎なんかも同じような事をやっていたと思う。

ただ本田は戦時中にすでに自転車に小型エンジンをつけたものを販売していて、米軍の戦闘機が増槽タンクを捨てて落としてゆくのを拾い、中に残っていたガソリンを「トルーマン賞与」とよんでこの自転車の燃料に使っていた。

ホンダが世界的な会社に成長した後にアメリカ人の記者に


「終戦の時には日本人はみんな悲しみました。私も悲しみましたよ。これでトルーマン賞与がもらえないと思うと悲しくてね。」


と茶目っ気たっぷりに語っていた。


ホンダもIMCも戦後は同じようなところからスタートしたのだが、ホンダは戦時中はトヨタの下請けでピストンリングを作っていた会社であるからエンジンを自社で開発してゆく。

一方IMCは他所からエンジンを持ってきて自社製のフレームに乗せるだけの組立会社。


トーハツ興産株式会社(現トーハツ株式会社)やみづほ自動車製作所(キャブトンマフラーで有名)からエンジンを買い組み立てて販売していたが、
自社でエンジンを開発出来ない悲哀、エンジンメーカーが自前のフレームに自社製のエンジンを乗せたオートバイを作るようになって経営が圧迫される。

さらに戦後乱立したオートバイメーカーはホンダやヤマハなどにより淘汰されていって、IMCも最後は中部日産ディーゼルに吸収合併されていった。




















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