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2018年10月23日13:12

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金大中時代の苦い思い出 黒田勝弘

 下記は、2018.10.23 付の産経ニュース【緯度経度】です。

                        記

 1998年、当時の小渕恵三首相と韓国の金大中(キム・デジュン)大統領による「日韓パートナーシップ宣言」から20周年を迎え、日韓双方でいくつかの記念行事があった。いい時代のいい宣言だったということで、当時の思いを受け継げないかという発想からだ。

 宣言で小渕首相は過去の歴史について「謝罪と反省」を明確にし、金大統領は戦後日本を高く評価。お互い未来志向の関係を約束し長文の「共同行動計画」まで発表した。金大統領は「これで過去は清算された」とも述べている。

 その後の日韓関係の展開と現状を考えれば「へえ、そんなことがあったの?」という感じだが、韓国の対日外交は合意、約束を無視しひっくり返して平気という甘え外交(?)だから、両首脳も黄泉の世界で思い出し苦笑かもしれない。

 20年前の記憶でいえば筆者は個人的には小渕氏に好感があった。彼は当時、いろんな人によく電話をする“ブッチホン”で知られたが、筆者も訪韓前など3回ほど首相官邸から直接、国際電話をもらった。いつも「そちらは今どうです?」といった感じで、韓国に関心があって“韓国好き”をうかがわせた。

 金大中氏の知日派ぶりもすごかった。「日本統治時代は私はトヨタでした」などと、韓国の政治家にとってはタブーの過去の日本名まで平気で公言できた。筆者には中学生時代の思い出として語ってくれたエピソードが記憶に残る。

 日本人の先生が国語の授業で、生徒たちに石川啄木の「東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」という有名な短歌の感想文を書かせたところ彼が1等賞になって大いに褒められた、というのだ。

 政治家としては野党政治家時代の1973年、韓国の情報機関によって滞在中の日本からソウルに拉致・連行された「金大中事件」が有名だが、その後、獄中生活など曲折を経て4回目の挑戦で大統領になった。

 大統領時代には日本の大衆文化解禁に踏み切り、竹島(島根県隠岐の島町)をめぐる領土問題でも「韓国にとっては騒がない方が有利」といって“静かな外交”を主張し世論をなだめている。

 金大中氏は2000年、初の南北首脳会談などでノーベル平和賞を受賞した。このときの受賞理由には、今や誰も覚えていないし、韓国側では当時も無視されたが「日韓の和解・関係改善」も含まれていた。

 金大中氏は在任中、メディアをはじめ世論の“単純反日”に時にはブレーキをかけたが、最大の対日外交ミスは01年の教科書問題だった。日本の中学歴史教科書で保守派の「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書が検定に合格したといって、反日世論が巻き起こったとき、それを外交問題にしてしまった。

 日本の教科書は自由採択制でこのときは8種類が検定に合格し「新しい歴史教科書」はその一つにすぎなかった。

 知日派大統領としては“無知”で感情的な世論を説得し「日本国民の判断に任せよう」といえば済んだのだ。当時、日本政府に突きつけた35項目の記述修正要求の中身など、今や誰も覚えてはいない。金大中氏でも最後は反日ポピュリズム(大衆迎合)に動かされたのだ。

 最近も文在寅(ムン・ジェイン)政権は、日本の自衛艦旗(旭日旗)に対する「戦犯旗」などという韓国だけで見られる世論の“言いがかり”をなだめられず外交問題化している。あの金大中時代、こうした韓国外交のあしき反日ポピュリズムの根を断ついいチャンスだったのに。(ソウル駐在客員論説委員)

 https://www.sankei.com/world/news/181023/wor1810230024-n1.html
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