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2018年09月28日07:41

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評価する眼は、何で養なわれるか

むかし、江戸時代の老舗の有名質屋では、雇った小僧に、毎日毎日、一流の刀剣や陶磁器や屏風絵などを、そればかり日がな一日眺めることを続けさせたそうである。
まあ、すべての小僧ではなく、これはという者だけに限られたのだろうが。
それは、人の、感性からの価値の原初的見極め力というものが決定される思春期のもっとも重要なときに、二流のものばかり見ていると、眼がそのレベルになってしまう。一級とはどういうものかが、分からなくなる。
一級のものばかりを最初の物心つく時期に毎日見続けると、逆になる。
一級品には、理窟でなく、そういうところがある。
それはおそらく、工芸品のみならず、美術、芸術、あるいは人物の持つ器量というものへ
の直観力にも通じるのではないか。
ジャンルや種類を超え、気品や格というものには、そういうところがある。
理窟のまえに、直観や感性が、ニセモノや二流品を本能で撥ねつけてしまうのだ。

こういう経験をしたことはないだろうか。
ある人からあるものごとの価値判断を聞き、その内容がありきたりでいっこうに面白くないとき、それが語る人の理窟=論理からしかきていないものだと分かると、ああ、やはりこの話や言葉のつまらなさ、底の浅さはその理由から来ているのかと、分かる。
それだと、よくて単なる一般論、悪いと、この人はいったい何をいおうとしているのか、分からなくなる。
つまり、あるものごとの価値判断や評価とは、まず最初に感性、直観での判断があり、その言葉化として論理があるのだ。
逆ではない。
その言葉が凡庸で人を動かすものがない人とは、最初から論理のみでものごとを考えている人である。
勿論、生を重ねるなかでその2つは融合されていく。
だが芯には、感性に基づく直観がなければならない。
だから、思春期に感性を鍛える一流品に接することが大切なのである。

あのレニ・リーフェンシュタールはその自伝の『回想』のなかで、「私はこれまでの人生において、理性と直観との判断が分かれたときは、いつも直観に従って進路を決めてきた。それで後悔したことはない」と書いている。
われわれ凡人にはなかなかそこまでの思い切りは出来ないが、でもここに書いてきたことから考え、含蓄ある言葉と思う。

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