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2018年09月18日11:39

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何か出来ることがあるのだろうか・・・

今月もお花が届いた。月命日の前日・・・運転していた青年からだ。物覚えがいささか曖昧になってきた母が「なんで?誰から?」と聞く。なので、いつもと同じ説明を、また繰り返し・・・ながら、思った。「この青年のこと、どうしてあげればいいものだろうか」。

昨年、七回忌を終え、毎年お花を送ってくださる先生方やお友達、お世話になっていた先輩方には、お礼と共に「お花を送っていただくのは、今年を最後に」とお願いする手紙を送った。

命日に花を供えていただけるのは、ほんとうにほんとうに嬉しくて有難くて・・・藍那はたくさんのステキな方たちと出会って、楽しい時間を皆さんと一緒に過ごさせてもえたんだなと、慰められるのだが・・・

この日に藍那を思うということは・・・それはやはり悲しい思い出になってしまうので・・・いつとはなく、ふと楽しい出来事の中で、そういえば藍那と一緒に笑ったな、一緒にバカやったな、一緒に頑張ったなって、笑顔で思い出して欲しいので・・・そうお願いすることにした。

でも、毎月、月命日に花を供えてくれる、運転していた青年には、何も言っていない。お花を断ることが、彼にとって良いことなのか・・・彼の心を解放してあげられるものなのか・・・ひよっとしたら、かえって彼を追い詰めはしないか・・・その判断が、どうしてもつかないからだ。

決して、許せないからではない、恨んでいるからではない。彼を恨んだことは一度もないし・・・だから許すことなど最初からないのだ。もし恨むとしたら・・・それは天、それ以外にはないかもしれない・・・

交通事故では、誰もが簡単に加害者にも被害者にもなりうる。もちろん、まったく過失がなければ加害者になることはないかもしれないが、ちょっとしたスピードの出し過ぎ、ちょっと注意力が散漫になること、眠気に襲われたりといったことを経験していないドライバーなど居ないだろう。その時、たまたま何も起こらなかったか、取り返しがつかないことが起こってしまうか・・・結果によって、その人の人生は激変してしまう。昨日まで、穏やかに暮らしていた善良な人が、ちょっとした過失で、人殺しになってしまうようなことが起こってしまうのだ。

だから、司法が課す刑罰は、重大な過失や故意がないかぎり、そんなに重くはないのだろうが・・・加害者になった人の心に圧し掛かる罪悪感は、きっと生涯、その人を責め続け、苦しめるだろう。もともと善良な人であればあるほど・・・その苦しみは深くなるだろう。

だから、交通事故においては、加害者も被害者だと、わたしは思う。運命の被害者なんじゃないかと。

では、そんな人の心をどうしてら救えるのだろうか。被害者遺族だからできることがあるかもしれない。でも・・・お互い、距離を置いた方がいい気もする・・・

だから、お花に関しても悩む。「もういいよ」と言ってあげることが良いのか・・・そうしたら、具体的な行動を封じてしまうことによって、逆に心にシコリが沈澱していかないだろうか・・・

わたしだったら、と考える。わたしだったら、何か出来ることがある方が、自分を保っていられる気がする。せめて月命日には花を送っているということが、贖罪の行為として、彼の心の重荷を一時でも軽くするものになりはしないかと思う・・・でも、ほんとうはどうなのかは分からない。

だから、何も言わないことにした。彼に任せることにした。突き放すようだけど・・・やっぱり、人の心は他人には分からない。彼に、自分で考えて、自分で決めてもらうしかない。今後、彼がどんな選択をしても、わたしたちは、それを受け入れようと思う。
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