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2018年09月13日12:16

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生きるとは何かー乃南アサ『水曜日の凱歌』を読む

音道貴子シリーズの1つの『風の墓碑銘』以来久々ではないかと思われるこの本格的長編の底には、作者乃南の強い思いが脈打っていると感じられる。
敗戦後やってくる戦勝国兵士たちへの性サービス専門施設をあの敗戦の3日後に政府がつくり、そこに一般から4千人の女性を公募で集めたこの事実を真正面から描いた作品は戦後初のはずで、それだけでも、われわれの戦後なるものへの認識を揺らがせるのに十分だ。だからこの物語を書く著者に、一般女性たちへの被害がおよばぬ防波堤になってほしいとの政府のダイレクトな要請で駆り集められた女性たちの境遇への怒りや悲しみを女性作者のこの人が持つのは分かる。8月15日の敗戦の僅か3日後に早々とそんな施設の設置を閣議決定した高官たちの頭には、ほかならぬ自分たちが中国でやったことのおぞましさの記憶が強い不安となってのしかかっていたことは確かであろう。その恐怖が、こんな前代未聞の措置をかれらに緊急にとらせたのであろう。
8か月間に全国で4千人以上の女性たちが従事したその敗戦史の一角を描き出すに当たって乃南は、ある仕掛けを用意した。それは、その専門機関の上級スタッフたち、平社員の下級スタッフたち、直接の性的サービス従事者女性、女学校時代に学んだ英語力を買われて対GHQ折衝役の上級スタッフとなった主人公の少女の母親、その主人公の小学校高学年少女、3月10日の空襲で故郷が焼野原にされてしまったその同級生たち、とそれぞれ生きてきた人生も社会階層もことなるすべて女性たちを設定したことだ。生きていくために一般人から応募した19歳の未経験の女性は、最初の兵士を取らされた後、衝撃に耐えかねて鉄道に身を投げてしまう場面も書かれる。それらの立体的な全体像によってこの物語は、ただの悲惨な事実の暴露や政府のその措置への怒りの筆致だけの平板さに陥ることからまぬがれている。
では作者がこの物語にこめた問題意識、究極の目的とは何か。
私の考えではそれは、人生でどんな運命に遭遇することになるか誰も知ることはできない、でもそういう過酷な運命や境遇の下でも人は生きていかなければならない、という誰も避けられないし予測することもできない「普遍的で公平な生の条件の運命」というものへのメッセージではないだろうか。
この乃南は作家になる前の人生で、夫か恋人などのごく近しい異性にひどい裏切りを受けたことがあり、その痛みは長く心から消えなかったようだと、その著作の描写から私は指摘、推測したことがある。その個人的な人生の出来事から、乃南は、いわばそれを戦後日本の歴史のなかに嵌め込み、知っている人間は沢山いたはずなのに誰もがそれをなかったこととして済ませようとしている戦後日本の秘史の物語、戦争で家族や家や暮らしのすべてを奪われ、いやおうなしにうそういう世界に飛び込んで行かざるを得なかった女性たちの事実として、かつてこの国はそういう役割りを戦勝国の兵士たちにさせられた多くの一般人女性たちがいたのだと、真っ向から現在のわたしたちに提示することを、決意したのではないだろうか。それを知ることにより沸々と湧いてくるさまざまな感情を意識的に抑えてはいるが、強い力の籠った作品と受け取った。



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