Noと言えない日本人。
という話が昔ありましたが、それはNoと言えないのか、Noと言わないのか?という疑問がありました。
社会に出て働いていると、色々と不条理な事があるもので、断り辛いという話もあります。
ただ、
No
と言ってしまうと、そこで終わってしまうんですよね。
文中では、例として友人関係が上がっていますが、それこそ極狭い人間関係だからこそ出来る話ですよ。
言い方を変えると、
No
と言ってしまう事で、可能性を潰してしまう事になりえます。
無論、物理的に無理な事や、興味がない事は、断れば良いんですよ。
能力云々の話ではなく、
無理
な話なんですから。
ただ、興味があってやれそうなことを 自分の今の能力では見合わないと言う理由で
No
と言ってしまって良いの?という話です。
ごちゃごちゃと、前提条件を付けてでも、興味のある話であれば
Yes
と言った方が、自分の可能性が広がりますよ。
やって失敗した後悔は、やらなければ良かったという選択肢と、失敗したと言う経験値が得られます。
ところが、やらなかった後悔は、何も得られないんですよ。
話を戻すと、当時のNoと言えない日本人と言うのは、今にして思えば自虐ネタだと思うんですよね。
当時の日本は、イケイケの時代で、何でも取り組んで何でもこなすという精神のもと、海外に打って出ていた時期です。しかも、大概の事は出来てしまうのが日本人なんですよね。
何でもやるんだな、こいつら
そう言う思いで、外国人からNoと言えない日本人と言われ、自らも、何でもできてしまうので、Noと言えない日本人と言っていたのかと。
その実は、
Noと言わない日本人!
という事だったのではないのでしょうかね。
ただ、言葉は魂が籠ると言われており、言霊という言葉がる様に、自称をネガティブな表現を使ってしまうと、そちらに引っ張られてしまいます。
Noと言えない日本人を、Noと言わない日本人と言い換えている人達はそうでも無いのでしょうけど、そのまま受け取り
No
と言い始めた人達は、衰退の一途だったのでは?と。
出来る事は、やる。
出来ない事は、断る。
では、出来そうな事は?
という話なのかと。
そこで出るのが人間性で、何を言うかは、相手との関係なのかと。
出来そうな事は、頑張ってみる。
何が正解と言う話は無いのでしょうけど、私はこう思って生きています。
自分の能力を正しく評価できていますか?という問いにどれだけの人が正確に答えられるのでしょうか。
控えめな回答もあれば、過大な評価もあるのでしょう。
ただ、能力に見合った物だけをYesと言い、そうじゃ無ければNoと言うという人生は、とてもつまらないと思いますよ。
出来る事、出来ない事を見極めたうえで、出来そうんな事を頑張ってみるからこその人生なのではありませんか?
■できないことは「できない」と断る勇気 なぜ持てないのか?
(THE PAGE - 09月05日 12:22)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=177&from=diary&id=5275019
人から何か頼まれたとき、できないことは「できない」と断るのは、当たり前のことですが意外と難しいものです。自分の能力の限界をわきまえて、できないことは「できない」と断り、できることは引き受けてきちんと仕上げる。いつでもこんなふうに対応できるのなら、それだけでも立派だと言えるし、「できる人」という評価も得られるでしょう。
なぜ、できないことは「できない」と断る。こんな一見簡単そうなことが、これほど難しいのでしょうか?
できないことは「できない」と、なぜ断れないのか?
理由はいくつかあります。
まず、無知。より正確に、ソクラテス風に言えば「無知の無知」。自分の能力不足を自覚していないから、できないことを「できる」と答えてしまう。
次に見栄や意地。自分の能力不足を自覚していながら、見栄や意地のために「できる」と言ってしまう。
この2つはさほど重大ではないかもしれません。いやいや仕事のパートナーがこのようなタイプだと重大な問題です。ただ、心の病という観点、あるいは人を生きづらくさせる要因という観点からは、まだしも一番重大なわけではありません。
一番重大なのは、相手の気持ちを傷つけたくないという配慮のために、あるいは厳しい言い方をすれば断る勇気を持っていないがために、できないと分かっていながら断り切れないケースです。
最終的に引き受けた課題や責任を果たしきれずに本人が潰れてしまうのです。結果として、頼んだ側にも迷惑が及んでしまいます。それでますます本人は気持ちが落ち込み、なおさら何もできなくなってしまうという悪循環を招くことになります。
そこから抜け出すために「人の思惑を心配する前に、自分のことを心配しなさい」と基本的なアドバイスをするのですが、これがまた難しいのです。自分のことより相手のことを優先する心の習慣がしっかり根を張っているからです。しかもたいていの場合、この習慣の奥底に根深い不安や恐怖があるのです。
「Noと言ったら、嫌われないか? 見捨てられないか?」という不安や恐怖。得てしてこういう人たちの周りにはこの心理につけこんで(頼まれればNoと言えないことを見透かして)、自分の頼みを押し付ける「友人」が寄ってくることが多いのです。
「Noと言ったら、嫌われないか」 不安や恐怖を減らす方法とは?
《日本の親が子供に一番よく言うせりふは「みんなと仲良くしなさい」。アメリカの親が子供に一番よく言うせりふは“Just say No”「Noと言いなさい(=イヤものはイヤ。ダメなものはダメとはっきり断りなさい)」》
という通説の出典は明らかでないけれど、「さもありなん」とは思います。
日本の社会はもともと、周囲のみんなに気を配り、その場の空気を読んで自己主張を抑制する雰囲気、つまりNoと言うのをためらわせる雰囲気があるからです。だから、Noと言うことへの不安や恐怖は多くの人が多少なりとも持ち合わせていますし、断りたくても断り切れなかった経験の1つや2つはあるでしょう。
ただたいていの人は、それでもどこかの時点で踏ん張ってNoと言い、「できない」と答えることができたので、潰されずに生きているのです。Noと言えずに潰されるのは少数派ではあります。しかし日本がこれからもしばらくはこのような社会であり続けるならば、今は潰されずに生きている多数派も、ちょっとした条件や状況の変化によって潰される少数派の側に移ってしまうかもしれません。それにたとえ潰されないとしても、Noと言いたいときにNoと言えないのは快適な生き方ではないし、そんな世間は風通しが悪いでしょう。
なぜ、Noと言えないのでしょうか?
何が、Noと言うのを邪魔するのでしょうか?
ひとそれぞれによって原因はさまざまかもしれませんが、一番ありふれているのは、すでに述べましたが、「Noと言ったら、嫌われないか。見捨てられないか」という不安や恐怖なのです。Noと言うと友人を失い、ひとりぼっちになるかもしれない不安や恐怖なのだろうと思います。では、この不安や恐怖をゼロにできないまでも、減らすにはどうすればいいのでしょうか?
これについて語るには精神療法、心理カウンセリングの方法そのものを語ることになります。そして、語る内容は相談相手(患者、クライエント)によっていろんなバリエーションがあります。ですから、ここで書くのはごく大ざっぱなことになります。
まず、考えてほしいことがあります。子供の頃から“Just say No”としつけられたアメリカ人は、みなひとりぼっちなのでしょうか? 友達がいないのでしょうか? そんなことはないでしょう。Noと言ったからといって、友達が作れないわけではありません。
このアドバイスに対して、ほぼ必ず返ってくるのは「でも、ここは日本だし。アメリカじゃない」という返事。もちろん、そのとおりです。そうであっても、自分の周りに小さな世界を作ることはできます。お互いに、イヤなものは「イヤ」と言いあえる率直さや正直さが受け入れられる小さな世界です。
「小さな世界」は本当に作れる? 不安になったらチャップリンの言葉を思い出そう
「でもほんとうに、小さな世界を作れるのかな?」という不安はあるかもしれません。この不安を乗り越えるために、俳優のチャーリー・チャップリンに背中を押してもらってはいかがでしょうか。
「怖がらなければ、人生は素晴らしいものなんだよ。必要なのは勇気と想像力……。あと、ちょっとばかりのお金。それだけ」
“Life can be wonderful if you’re not afraid of it. All it takes is courage, imagination… and a little dough.”
この名言に添えて、こんな夢を語ることもあります。
「あなたが自分の周りに小さな世界を作ったら、そしてあなたと同じような人たちが同じような小さな世界を作っていき、率直さや正直さが受け入れられる空間が広がっていけば、自分たちのためには間に合わなくても、次の世代には今よりもっと風通しの良い世の中を残してあげられるかもしれない」
そんな世界への夢をいだいて、勇気を持ってNoと言ってみませんか?
(心療内科医・松田ゆたか)
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