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2018年08月22日14:15

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内村鑑三と志賀直哉、中里介山、南原繁

志賀直哉は「内村鑑三先生の憶い出」(高橋英夫編『志賀直哉随筆集』岩波文庫)に「私はこの夏の講習会から七年余り先生に接して来た」として、その頃、内村鑑三のもとに集った多士済々を列記している。明治34(1901)年(18歳)夏から明治40(1907)年(24歳)の頃までのことである。

「一高の生徒で、小山内薫、倉橋惣三、岩波茂雄、西沢勇志智の諸君、それから……理学博士の大賀君、独学で工学博士になった芝浦製作所の田中君、法学士で今も伝道の仕事をしている浅野君、富山県の農学校の校長になった小野君、その他名は忘れたが色々な人がいた」
「京都大学の天野貞祐君や落合太郎君は私の行っていた七年間で、最後の二年頃に来た人たちだったように思う」

と言うことであれば、その頃、内村鑑三と関わりの深かった中里介山や南原繁との出逢いはなかったのか、少なからぬ興味が湧いて来た。「長与善郎、高木八尺君などはそのまた後で、私とは同時代の事はなかった」とあるが、その高木八束を親友とする南原繁が、初めて内村鑑三の聖書講義に出席したのは、明治44(1911)年秋というから、志賀直哉の去った4年後のことであり、出逢うはずもなかったのである。

「不肖の弟子」を自認する志賀直哉が内村鑑三に感謝しているのは、「もう一つその頃の社会主義にかぶれなかった事も先生のお蔭だった」ことである。社会主義といえば、その頃、内村鑑三の主宰する雑誌『新希望』(明治38年6月)に、「予が懺悔」を発表して、中里介山は社会主義との訣別を表明した。幸徳秋水・堺利彦らの『平民新聞』の「非戦論」に共鳴して、健筆をふるっていたのだが、その社会主義には懐疑の念を抱いていたのである。

「余は虚栄の子也。傲慢の子也、罪人也、痴人也。余は漸くにして自己の愚と罪とを自覚し来るや狂する許り苦悶を初めたり。余はこの苦痛に堪えず、馳せて角筈に内村先生を訪い切に先生の教えを求む、先生余が過去の非礼を許し余が為に諭して云わるる様」

すなわち、中里介山は内村鑑三に救いを求めて諭され、「筆を執る事あらば神と人類との為。敢て自己の小不平の為に心を煩わさざるの道に精進せん」と心に決めたのである。ちなみに、翌年、処女出版したエッセイ集『今人古人』で、「吾人は非戦論を唱うる内村に於て益々彼が立場を明白にせる宗教家的勇気に服す。宗教的戦士らしき態度に於て内村は少くとも古今に絶す」と称えてやまない。

それらの経緯は、志賀直哉が内村鑑三のもとにあった同時代であるが、介山の「生前身後の事」(『隣人之友』昭和9年)によれば、文学界では「尾崎紅葉も知らない、正岡子規も知らない、夏目漱石も知らない、……国木田独歩も知らない、人間としては何らの親しみも無かった」と言うから、まして況んやということか。どうも志賀直哉と介山の出逢いはなかったと言うほかないようである。
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