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2018年08月13日20:29

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栗城史多とは一体何だったのか?《壱》

栗城史多(くりき のぶかず)さんが遺体で発見された。
世界最高峰であるエベレストに挑むこと実に8回。跳ね返されて挫折して、しかしまた立ち上がってチャレンジする。そんな姿をネットで配信して多くの人に勇気を与え、夢の共有を目指していた。
しかし遂に帰らぬ人となった。

彼を初めて動画で見た時は驚いた。
荘厳な山の景色や凄まじい地吹雪。
そこを力強く進んで行く勇姿。
かと思いきや、彼の口から漏れて来るのは弱音。泣き言。
そして登頂を断念して号泣…

そこに映っていたのはスーパーマンではなく平凡な1人の青年だった。特別な才能や技術、潤沢な資金に恵まれてる訳ではなく、俺と同じ様な等身大の若者だ。だが溢れんばかりの情熱と行動力を持っていた。

俺は冒険家ではないが、アラスカをヒッチハイクで40日間旅をしたり、8万円のポンコツのバンでアメリカを4万km走ったり、半年間インドを彷徨ったり…
自分の身の丈に合った『冒険』をしてきたつもりだ。
もちろん登山家でもないが、アラスカのマッキンリーの近くまで行ったことがあるし、クルマで行ける世界で二番目に高いとか言う、インドの5400mの峠を越えたこともある。

別に自慢をしたかった訳ではないし、凄いことをしたとも思ってない。ただ、『知らないことを知りたい』知的好奇心とか、突き詰めていく探究心が強かったのだろう。さすがに『前人未到』とか『史上初』ってのはムリとしても、あまり人が行ってない、つまり情報が少なく、よく知られていない場所に行きたい、見たい、知りたい、という欲求が強かったのだ。だから冒険なる行為自体に憧れがあり、理解もあるつもりだった。
そんな俺だから、栗城さんを知った時は『凄いヤツが現れた』と驚いたし、と同時に『やっぱり世界には凄い人がいるな』と、何か嬉しさにも似た感情があった。スケールの違いは歴然だが、自分と同じ種類の匂いを感じ、応援していた。

栗城さんが有名になるにつれ、しかしネットを中心に批判的な意見が増え始める。
ネット民の口の悪さは知ってるが、それにしても度が過ぎている。なぜそこまで叩かれるのだろうか?
山岳とかアウトドアー関連の書籍でも一切扱われない。それどころか、著名な登山家や山岳雑誌の編集者といった専門の人が、栗城さんの登山に対して様々なツッコミを入れていた。
専門知識の無い俺には判断できないが、しかしそうした指摘に対して栗城さん本人からの論理的と思える回答や反論、或いは説明や弁解などは殆ど無い。また、外野からも擁護する意見が出ないというのもおかしいだろう。『ネットを鵜呑みにするな』ってのは重々承知してるつもりだが、しかしネットは不特定多数の参加者がいるからこそ、その全ての口裏を合わせるのは不可能だ。知識自慢や事情通、ひねくれ者はどの世界にもいるのだから、必ずや反論が噴き出すのが自然だろう。
その反論が無いということはつまり、『指摘してる方が正論』であり、栗城さん側は反論したくてもできない、と考えざるを得ないのだ。



栗城史多とは一体何だったのか?
ネットで拾った情報を、一部抜粋や訂正して記してみたい。繰り返しになるが、大半が否定派の意見なのでどうしても辛口に寄ってると思う。が、少なくとも俺がちょろっと調べてみた限り、論理的かつ有効と思える反論は見つけられなかったので仕方がない。そうしたコメントを持つ方や、知ってるという方がいたら是非教えていただきたい。
では彼の足跡を辿ってみよう。



2004年6月(22歳)
マッキンリー(北米最高峰 標高6194m)登頂。
栗城さんは山岳部だった彼女に誘われて山登りを始めたらしいけど、それで突然思い立って北米大陸最高峰である、アラスカのマッキンリーに登ってしまう。これってみんなスルーしてるけど、結構凄いと思う。『登山家』からしたら大したことないのだろうけど、この時の栗城さんはズブの素人なんだしさ。
マッキンリーの頂上に立った瞬間、全身の細胞の1つ1つが『生きている』と主張してるかのような、今まで味わったことのない感覚だったそうだ。



2005年1月
アコンカグア(南米最高峰 6959m)登頂。
返す刀で半年後に南米大陸最高峰を攻略。南半球が夏になるまで待ってすぐに決行した形で、彼の行動力が窺い知れる。



6月(23歳)
エルブルース(ヨーロッパ最高峰 5642m)登頂。
聞いたことの無い名前だが、ロシアの山だって。欧州最高峰はモンブランじゃないって今初めて知った。



10月
キリマンジャロ(アフリカ最高峰 5895m)登頂。
しかし高度障害で倒れてポーターに救助される。キリマンジャロはポーターの随行義務があり、そもそも単独登頂は不可能な山らしいけど、後に味噌もクソも一緒に『単独登頂』と宣伝し始める。



2006年10月(24歳)
カルステンツ・ピラミッド(オセアニア最高峰 4884m)登頂。
もはや彼の目標は、各地域の最高峰を全てクリアーする事の様だ。



2007年5月(25歳)
チョ・オユー(世界第6位 8201m)登頂。
遂に世界の屋根、ヒマラヤに挑戦して見事登頂。しかも7700m地点からスキーで滑降するという冒険野郎ぶりを発揮。
ただ、『単独無酸素登頂』を主張しながら、本人自身が『サポートのシェルパがルート工作と荷揚げをしてくれてる』と記しており、どうも栗城さんは『自分の2本の足で登り切れば単独登頂』と考えていたのじゃないだろうか。
『世間ではそう呼ばない』、『定義が間違ってる』と否定したとしても
『世間がどう言おうが関係ない。僕はそう表現することにしてる』と、全く取りつく島が無い様な、そんな印象を受ける。



12月
ビンソンマシフ(南極大陸最高峰 4892m)登頂。
南米まで行くだけでも大変なのに(飛行機を乗り継いでも丸24時間以上)、更にその先の南極大陸まで行ってるんだから、それだけでもバックパッカーの俺には尊敬もの。その上で5000m近い山に登るって凄いわ。



2008年夏(26歳)
富士山(日本最高峰 3776m)8合目で撤退。
俺は初めての富士登山は6合目(笑)で敗退してるので耳が痛いw
人間誰しも絶不調って時があるだろうし、猛烈な悪天候だったのかもしれない。
でもまぁエベレストに登ろうって人がね…



10月
マナスル(世界8位 8163m)に『日本人初の単独無酸素登頂』したと主張するが、世界で最も権威あるヒマラヤン・データベースを始め、日本山岳会も登頂を認定せず。

『マナスル登頂者のなかには、手前のコブを「認定ピーク」と呼んではばからない人物がいる。 頂上ではなく認定ピークに登ったということは、頂上手前のコブで敗退したのと同義なのだが、 そういったレベルの登山者が無酸素・単独登頂の成功者としてメディアに登場するご時勢なのだ』
池田常道(山岳雑誌『岩と雪』元編集長)

更に言うと、1981年に3人、85年にも2人の日本人登山家が無酸素登頂を果たしているのだが、何の抵抗も無く『日本人初』という言葉を安易に使う辺り、栗城さんの姿勢を見事に表している。
彼の著書『No Limit』の改訂版でも修正されていない。『日本人初』でもないし、『単独』でも無く『無酸素』でもない。ましてや『登頂』すらしていない。
この時はニュージーランド隊が長期間かつ大規模に展開しており、多数のシェルパを雇ってルートを工作。栗城さんを含む多くの登山家が使用料を払ってそのルートを使用した。更に栗城さんはロシア隊やフランス隊が放置したテントを使ったことを自身のブログに書き込んでいる。当然『他人の助けを一切借りない』単独登頂のマナーに大きく違反してる訳だが、隠すどころか自分でアップしてるぐらいだから、もはや根本的な解釈が違うとしか考えられない。

シェルパが4時間で移動するところ栗城さんは8時間かかっていながら、翌朝の出発時間を決めるのにBCの仲間との無線で
『(C3からC4まで4時間の行程と聞き)じゃ早く着き過ぎてもやることがないから昼頃出発でいいですね』と発言。それを聞いたスタッフ一同は唖然とし
『(栗城さんはペースが遅いから5時頃出発しろと言いたいところを、抑えて)7時には出た方がいい』と必死に説得。しかしなかなか言うことを聞かず、ようやく9時出発と決まる。ところが時間になっても出発せず、結局10時に出発し、スタッフ一同溜め息。
登攀中は『後何時間で着くんですカexclamation & question』とキレ気味に訊いてくるが、『それは栗城さんの脚次第』と冷めた空気が蔓延し、スタッフ達の心も次第に離れ始めていた様だ。
因みに『頂上からスキー滑降した』と本人は主張し『4回ターンしたところで気絶して雪に突っ込んだ。有酸素運動なので、8000mの高所では酸欠で頭が真っ白になる』との弁だが、4回ターンで気絶するのに、その後どうやって降りて来たのかは不明。



2009年春(27歳)
ダウラギリ(世界7位 8167m)下山中に滑落。100m程滑落したがタルチョ(お祈りの旗)を立てるロープに引っかかって助かる。そして今回も『偶然』現れたシェルパにより救助。
『単独登頂』とは、必要な装備の全てをBCから山上まで自分1人で何往復もして荷揚げするもので、荷物運びであるシェルパがチームに帯同してること自体がおかしい(BCまでの運搬のみや、不測の事態に備える場合もあるが)。にも関わらず、今回を含め、そしてこの先も、栗城さんは何度も遭難し、その度『偶然通りかかった』シェルパに助けて貰っている。
大人数で捜索しても見つけられないケースが少なくない雪山での遭難で、毎回の様に偶然通りかかったシェルパに発見されるのである。




エベレスト(世界最高峰 8848m)に初挑戦するもシェルパに救助される。
ピッケルを持って行かずグレートクーロワールをどうやって登る気だったのか?と疑問視されている。滑落する危険のある斜面ではピッケルは必須装備らしい。滑り落ちた時に斜面に突き刺して止める、映画とかで見るアレね。



2010年春(28歳)
アンナプルナ(世界10位 8091m)で2回アタックし、2回共シェルパに救助される。
頂上からスキー滑降と、生中継を狙ったが、両方持って行くのは重量的に不可能としてスキーを断念。しかしその後『単独無酸素登頂』に集中したいとして放送機材も断念。
最終的には登頂も断念して下山。
その後、麓の町のカフェでメスナーに会ったと本人は言っている。
少しでも登山に興味のある人ならば『ラインホルト・メスナー』の名前は聞いたことがあるだろう。数々の記録を打ち立てた人類最強の登山家。山岳界の神様みたいな存在だ。
そこで
『エベレスト北面の最終キャンプはどこだったのか聞いてみたかった。 でも聞く事はできないし、メスナーも答えないでしょう。 なぜなら冒険は「自分で体験し答えを見つける世界」だから』とブログに書いてる。人に教えてもらわず答えは自分で見つけろって意味なんだろうけど、参考程度の質問とか単なる興味で聞いちゃいけないのだろうか?これは登山家にしか解らないナイーブな部分なのかもしれないが。
『アンナプルナのスキー滑降と中継。 重さを考えどちらかにしなければと考えていたが、両方やってみよう。やるだけやり、ダメなら下がる。それが冒険だ』
言葉だけはカッコ良いんだけど、ついさっき
両方はムリだからスキーは断念して中継機材だけ
→それもムリだから中継機材も諦め登頂に専念
→にも関わらず登頂できず。
で尻尾を巻いて逃げて来たのに、どうしてその直後にこんな言葉が出て来るのか不思議でならない。




エベレスト(2回目)でシェルパに救助される。
この時はBCへ向かう時の飛行機事故でシェルパが1名亡くなっている。
前回同様大勢のシェルパを雇ってルート工作を頼み、栗城さんは何もせずに待機。
『非常に寒く食糧も少ないが、頑張って停滞します』
単独登山という概念が根本的に無いから悪びれる様子も無い。人に仕事させて自分は『頑張ってブラブラします』と言い切る神経は、もはや異常としか言いようが無い。

あまつさえ生中継中にも関わらず酸素を吸う
(1:15.20 酸素マスクをつける)
BC 『マジで吸うんですか?』
栗城『あのねぇ〜こっちは真剣にやってんの!』
BC 『日本側からアァーという声が上がっていますが…( ゚д゚)ポカーン』
(1:18.20)
栗城『酸素カンパーイ! 酸素があれば何でもできる』

真剣だからこそ皆やせ我慢して酸素を我慢してるはずなんだが、この人にとっては登ってる最中でなければ、休憩中とかは吸っても構わないって解釈なのだろうか。

同時期のアメリカ隊が登頂に成功するが、その報を聞いた栗城さんは称えるどころか
『アメリカ隊は酸素ボンベ使用なので、 気圧で酸素が濃いか薄いかは関係ありません。 酸素ボンベは体感で標高が半分にもなるアイテムです』と放言。
死と隣り合わせの世界に生きる者同士、同じ様な気概を持って挑んでる人達に対する仲間意識が芽生えるのが普通だ。『一緒に戦おう』とか『お互い生きて帰ろうぜ』みたいな。登山家には変わり者が少なくないが、それにしても明らかに礼を失した態度。当然ながら世界中から大顰蹙を買い、謝罪することもなくコメントを削除して知らん顔を決め込んだ。



2011年春(29歳)
シシャパンマ(世界14位 8027m)敗退。
テレビ局のプロのクルーが帯同するようになりボロが出始める。隣同士のテントで無線連絡し、さもBCのテントと山上のテントの間でのやり取りのように見せてるという疑惑もあり、もしそれが本当ならかなり悪質と言わざるを得ない。
2回アタックして2回共敗退するが、2回目はシェルパと一緒に下山して来る姿がテレビ番組で放送された。おまけに荷物も背負ってない。にも関わらず『単独』の一点張りで、もはや栗城さんの使ってる言語は世間のそれとは異なるモノであるとしか考えられない。



8月
富士山(2回目)登頂。
この前後、ツイッターでの発言
『シシャパンマ南西壁から帰ってきてから減量と筋肉増強をやってきました。 最初は食事制限が辛かったけど今では慣れました。
最後は血液を抜いて再度入れます。肉体改造はバッチリ』
『トレーニングのクライマックスは、某クリニックで血液の赤血球の強化です。 血を抜いてまた入れます。低酸素に強い血液を作ります。結構キツイ…』

『血液ドーピングではないのか?』と指摘されると、なんと
『このトレーニングを登山界で最初にやったメスナーさんに言って下さい。薬じゃないと言ってるのに』と反論したのには呆れ果てて言葉が出ない。言うに事欠いて、あのラインホルト・メスナーを引き合いに出すとは…
そして当然ながら、これも全くのデタラメ。直接メスナーにメールで確認した人がいて、血液ドーピングなんてやったことがないとの返事が来たそうだ。仮に百歩譲ってメスナーがやっていたとしてもそのことは誰にも言ってないのだから、世界の誰もそれを知らないはず(そんな噂すら無いのだから)。なぜ栗城さんは『メスナーがやってる』ことを知っていたのだろうか。
『あんな凄いことができるのはドーピングをやってるからに違いない』などと勝手に妄想し、それがいつしか現実と信じ込んでしまうのだろうか。



9月
エベレスト(3回目)敗退。
同行してたカメラマンが、BC到着後にクモ膜下出血で亡くなる。
登山は謎のカラス谷ルート選択。
デポした食糧をカラスに荒らされるというコントの様な敗退劇。その食糧というのも『葡萄ゼリー』だそうで、老人子供が誤飲しないように厳重に包装されてる低カロリーのダイエット食という、登山の最中には最も不向きな食べ物を選ぶ不思議。
登頂許可にも疑惑有りと盛り沢山。
今回もシェルパを12人も雇っており、単独では不可能と思える装備の荷揚げ、消耗し切ってシェルパに荷物を預けて自分は空身で下山。他人が掛けたハシゴを堂々と使っても頑なに『単独』を主張。
竹竿を使うシーンが動画に映ってるらしいが、BC出発時にそんなモノは写ってない。
同様に、出発時に持ってたピッケルが、上のキャンプ地に着いた時は違うメーカーになってる。
軽量化したアイゼンが硬い雪になかなか刺さらず、一度戻って装備を変更するが、更に雪が硬くなる夜中に再アタックという意味不明の行動。
下山してから
『「アルパインソロでそこを登ったのは凄いことだから胸を張りなさい」と著名な山岳ジャーナリスト、エリザベス・ホーリー女史に褒められた』と発言するが、その真相を彼女に確認すると
『私は栗城に一度も会ったことはないし、記録会社だから記録するだけで誰も褒めたりしない。証拠写真を要求したが提出しなかった』との返事で、またもやまるっきりの捏造らしい。



2012年5月(30歳)
シシャパンマ(2回目)敗退。
5月末から6月頭には登山に不向きなモンスーンの季節が到来するが、出発の前日まで講演活動するなどして5月10日にBC入りという
何時もの様に非常に遅い入山。現地の土砂崩れなどの影響もあってBC入りが更に遅れる。
偵察に出てガレ場で膝を捻って負傷。氷で冷やしながら数日待機。
8000m級の山に登るんだから、そりゃ一筋縄では行かないと思うのよね。実際に想定外のことが色々起きてる訳だし。それを見越してスケジュールを組むのが当たり前だし常識だし絶対条件であるはずなんだけど、それにも関わらず毎度の様に入山が遅い。
そんなこんなで高度順応の時間が無くなる訳なんだけど、この人は同じミスを何回繰り返しても全く学習しないのだろうか。
幸いこの年はモンスーンの到来が遅く、晴天が続く当たり年だったが、アタックを開始した6200m付近でロープを忘れるという信じられないミスをしてBCまで逆戻り。休養して再出発。6000m以上での滞在0という状態から一気に頂上アタックを目論むが、これは世界的な超一流クライマーでさえ可能か否かと言うウルトラCレベルらしくスタッフから猛反対される。一度は納得するものの、しかし夜になると頂上アタックに出発してしまう。
栗城さんのヘッドランプが左右に大きく移動したり、一度降りては登り直すなど、明らかに道を見失っている様子がBCから撮影された。
6200mで高山病となり、嘔吐が止まらない状態だったのでとても頂上まで上がれるはずがなかった。登頂を諦めて、登れるだけ登ってファンやスポンサーへの言い訳に『最高到達高度』を稼ごうと目論んだと思われる。
出掛けては帰って来たり、真横に移動するなどして『プロ出発家』や『水平登山』などと呼ばれる。比較的好天の日中に動かず、わざわざ危険な夜間に行動。結局は滑落してシェルパに助けられる。こうした、専門家からは理解に苦しむ謎の行動が多い。
滑落によって全身打撲、出血、骨折と発表され、『呼吸するだけで胸が痛い、右肩が上がらない、右手の肉がはみ出てる』とコメントするが、右手でストックを握りしめてBCに帰還し、BCからは馬に乗り、右手を大きく振って帰路に着く姿が撮影されている。




エベレスト(4回目)敗退。
これまでに何人もの死者を出した超危険なルートで、別の隊が春に計画するも、事前調査であまりのコンディションの悪さに断念した困難なルートを選定。
前年ノーマルルートのサウスコルにも到達できず、春のシシャパンマで取り付きで進行不能になった栗城さんには無謀とも思えたが、事前の記者会見では単独無酸素、共有、映画製作と大風呂敷を広げる。
因みに、氷河がずたずたに裂けたアイスフォールと呼ばれる難所があり、とても単独では登れないコース。専門家が見れば、この段階で単独で行くつもりが無いことは明白らしい。
8月末と言ういつも通り遅いネパール入国に加え、ドローンで空撮を行いながらでBC入りして更に遅延。ドローンのオペレーターを含む4人が高地が初体験で、高度障害により途中で停滞するなどして牛歩に拍車が掛かる。
しかし出発前から栗城さんは、かなり遅めの到着予定日をコメントしており、初めから早く入る気が無かった模様。
因みに過去のBC入りは
2009年は8月27日、2010年が9月4日、2011年9月7日、そしてこの年が9月12日。
毎年高度順応の時間が足りずに体調を崩し、或いは悪天候帯に入って敗退してるにも関わらず、年を追う毎に遅くなっていってる。
この人は確信犯なんだね。登れないのは解っていて、だからこそ登頂を失敗する原因をわざと増やしていってるんだと思う。
わざと難しいルート、条件(秋季、単独無酸素)、わざと天候が崩れる時期に入って行き、時間切れで無謀なアタックをして、結局高度順応できずに『体調が悪い』、『天気が悪い』を理由に下山する。
そして、登る前から『撤退する勇気』とか、『失敗を恐れず、そこから学ぶこと』などと強調し、撤退する為の言い訳を最初から用意してるのだ。
俺がこのブログを書くのに調べてみた限り、この人は確信犯なんだと確信した。

登山を開始するも雪崩を理由にすぐ引き返して1日停滞。再び出発してC2に到達。普通はここで一旦BCに戻って体力回復を図るのだが、なんといきなりC3に向かう。6000m峰でのハイキャンプによる一時順化も行ってない状態での急激な前進(高度上昇)はセオリー無視で、体力消耗が激しい。
『8000m地点から生中継』も『登攀中で中継できる状態に無い』という理由でドタキャン。 エベレストに来るのは4回目なんだから、そんなこと最初から判るんじゃなかろうか。

栗城隊では8人のシェルパがルート工作しており、ポーランド隊、韓国隊と共同歩調を取ってたことを両隊がコメントしてる。また栗城さん本人も他人が設置したハシゴの使用を明言しており、相変わらず『単独』ではない。

凍傷を負ったまま登山を強行し、高山病による体調不良も重なり停滞。高所登山は体力の消耗を抑えるために短期速攻で登り、無理そうならすぐに下山して体力の回復に努めるのがセオリーだが、栗城さんは必要以上に高所に滞在。7000m付近になるとテントで寝てるだけでも体力を消耗してしまう為、知人の登山家である野口健氏も
『C3での滞在は疲労の上積み。上がる(勝負する)か、下がる(一旦休養してから出直し)かどちらかにした方が』
『その戦略が僕には見えない』
などとツイートしてる。
最終的には7500mを最終キャンプ地として頂上アタックを仕掛けるが、多くの隊は7980mか8300mを最終キャンプ地としており、今回同シーズンに登った重廣隊とアメリカ隊はそれぞれ8230mと8250mを最終キャンプ地としたが、その高度から登っても登頂はギリギリとなり、帰路はビバーク(雪洞を掘って野営する)を余儀無くされている。
前回に続いて形だけのアタックではないか。スポンサーを集め、ファンクラブを作り、テレビで番組が組まれ、 大金が動いている状況ではアタックせずに下山できる状況ではなかったと思われる。
凍傷が悪化してコンロの操作もできず、暖も取れず水分補給も不可能となり、高所による体力消耗に拍車がかかって動けなくなりシェルパに救出される。この時の凍傷により両手の指9本を第1関節から切断することになる。
因みに、スマホを扱う為に指先の露出した手袋を使ってたのが原因と揶揄されることが多いが、アタック時はさすがにしっかりした手袋をはめており、その指摘は誤り。
凍傷で真っ黒に壊死した両手の写真と共に『諦めずに治療法を模索する』とコメントしてネバーギブアップの精神を強調したが、『凍傷治療の専門家』の治療を受ける為にインドで入院したり、再び指が生えて来る細胞を植え付けるアメリカの治療を視野に入れるなど迷走。
自分自身の両手の指9本を切断って瀬戸際なんだから藁にもすがりたいのは解らないでもないが、この辺りも彼の超個性的と言うか、他人からのアドバイスに耳を貸さないとか世間の常識などは眼中に無い。もう少し悪い言い方をするなら『自分の信じたいことだけを信じる』性格が表れてる気がする。

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