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2018年08月08日09:09

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8月7日

 字の乱れは心の乱れといわれるように、字体には人の内面が表れるものらしく、ぼくの書く字は知人に言わせれば頭痛がするくらいに悪筆ということだ。確かに自覚するところはある。まず字を書くという行為自体を面倒に思うところがあり、紙に向き合う姿勢からして歪んでいる。頬杖をつき、ため息をもらしながら、ろくに紙を押さえもせずに書き進める。罫線をいっさい無視した自由な書体は、無気力をあらわすかのようにだんだんと下降していく。ひとつのひとつの文字も、何かが落下して地面でグチャッと潰れたみたいにまとまりがない。ぼくには字を書くことがある種の苦行のようにも感じられ、なるたけ手早く済ませてしまおうといったその脆弱な精神が、先の言葉のとおり、そのままの形で表れているのかもしれない。
 でも中には、ぼくよりもひどい字を書く人もいる。たとえば木原さんという2つ年上の女性だ。はじめて彼女の字を見た時には、くらくらとめまいをおぼえた。とにかく癖の強い字で、もはや本人以外にはそこで何をしたいのかが理解できない。「止め」や「跳ね」らしきものを認めることができるのだけれど、それが別の線とぶつかっていたり、妙な隙間をにゅっと通り抜けるなどして結果的に字面を致命的に打ち崩している。それをしばらく見ていると、一瞬だけ古代人の残した謎に挑むような昂りをおぼえるが、あまり凝視しすぎると体調をおかしくする。
 ただ木原さんの場合、その摩訶不思議な字体が人格とリンクしているかというと、そうでもない気がする。むしろ木原さんは、気配りのできる誰かも慕われる人で、背筋をぴんと伸ばして華麗に歩く。誰よりも早く職場にやってきて、髪を一本に結わき、余裕をもって仕事にあたる。ぼくたちが彼女の中に歪みを見つけるのはなかなか難しい。
 木原さんは言う。「たとえば筆箱をあけたときに鉛筆が背の順になっていないと胃がきりきりと痛むの。わたしは何よりも先にそれを並べかえるわ」
 それは何かの警告のようにも響き、ぼくたちは慌てて身だしなみを整える。そういった神経質なところもある。でもそれは、ますます例の字体からかけ離れたところにある個性にも思える。やはり彼女の書いた文面を眺めると、どこか腑に落ちないものを胸に抱えることになるのだ。そのたびにぼくたちは、きっと彼女は特別なんだろうなと論を結ぶことになる。
 しかしながら、あるとき木原さんが不意にくしゃみをする瞬間があった。それはかなり遠くにいる人を振り向かせるくらいに豪快な咆哮だった。彼女の声帯を通ってきたとは思えないほど野太くあたりに響いた。ぼくたちはそこで何が起きたのかわからず、しばらくのあいだ口をあけて立ちすくんだ。何かの掛け声にも聞こえたことから、ぼくたちは木原さんが急にエネルギー弾を撃ったのかと思った。とにかく凄まじいくしゃみだった。もしかすると彼女の字体に影響を色濃くあたえているであろうバケモノが、一瞬だけぼくたちの前に姿をあらわしたのかもしれなかった。木原さんは何事もなかったように業務に戻っていく。その足音が闇深い洞窟をいくみたいにやたらと響いた。

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