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2018年08月03日23:50

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8月3日

 人と話すときに目を見るのが苦手だ。もし誰かと目が合えば、すっと視線をそらして、テーブルのどこか一点を見つめる。失礼だとは思いつつも、なかなかそこに留めることができない。目を見られていると、そこから自分の中を覗き込まれているように落ち着かなくなる。これは家族と向き合うときも例外ではなく、無意識のうちに目を泳がせて視線が合わないようにしている。この病的なまでの防衛癖は、さまざまな場面で人に不快な思いをさせてきた。対面しているにもかかわらず、ずっと下を見ながらぼそぼそと話すような人間は、やる気がないと思われる。もしくは、この場に不満を持っているようにも受け取られ、相手方を困惑させてしまうことだってある。ぼくとしては楽しんでいるつもりでも、その態度はまったく反対のことを表現してしまう。ほんとうに申し訳ないと思うし、ぼく自身もそれなりに悩んできた。信じてもらえるといいのだけれど、いっさい悪気はない。大人になって指摘を受けるまで、自覚がなかったくらいなのだ。
 いっそのこと目からレーザーでも出ればいいのになと思う。もしレーザーを発射することのできる目を持っているならば、それを人に向けるのは危険な行為となる。ハサミの柄を相手に向けて渡すように、この場合、目をそらせることがマナーとなる。きみは人の方を向いて話すことを避けなければならない、と博士に口酸っぱく吹き込まれ、ぼくは誰とも目を合わせないための正当な口実を手に入れる。もちろんぼくはそれを忠実に守るだろうし、みんなもそれを喜んで受け入れる。むしろ、ぼくが目を手で隠しながら話す姿を見て、良識のある人だと感心するかもしれない。
 ただ万が一、誤発射してしまった場合を考えると、背筋が冷たいものが走る。それがだれかを直撃してしまった時などは重大な傷害事件となりうる。しかもそれが女性の尻などを焦がし付けてしまった場合、それはぼくがそこを眺めていたという明かな証拠にもなり、もはや言い逃れする余地もなく二重三重の罪を背負い込むことになる。
 それが人や物に当たらなければいいという問題でもない。もし仮に眠っている時などに、なにかのはずみでレーザーが発射されてしまえば、ぼくのまぶたに穴が開くことになるのだ。いくら目をつむっても暗闇の訪れない妙な構造になってしまう。それは生きる上でとてもきついことに違いない。
 映画シザーハンズで表現されているように、きっと殺傷能力を抱えて生きることは、ぼくたちの想像を超えた苦しみがある。いくら工夫をこらして慎重に生きていても、その危険性はどこまでも付きまとう。たしか映画でも、共存はむずかしいとして人里を離れる道をいくことになったはずだ。
 ぼくは鏡に自分の顔をうつしてみる。そこには黒目があり、その中に角膜があり瞳孔がある。レーザーが出てくる気配はない。ぼくは悪い夢から覚めたような安堵をおぼえる。ぼくは発射口から煙が立ち上っていないことを感謝するべきなのかもしれない。不意に誰かを貫いてしまうことに比べれば、目を合わせるくらい大した問題ではないはずだ。思えば、こうして鏡の自分とはずっと目を合わせていられるのだ。何かしらの問題を片つけてしまえば、ぼくも人並みにコミュニケーションを取れるようになるかもしれない。目をがっちりと合わせ、対話を楽しむことができるかもしれない。まずは妻が壁にはりつけたポスター、この韓国人から慣れていこうと思う。


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