mixiユーザー(id:5456296)

2018年07月26日17:20

62 view

草莽の記 7月26日の憂鬱

下記は、2018.07.26 付の NPO法人百人の会 からのメールの転載です。

                       記

7月26日の憂鬱

ABCD包囲網との言葉で日本への経済封鎖が語られる。「ABCD」とは、貿易制限を行っていたアメリカ合衆国(America)、イギリス(Britain)、中華民国(China)、オランダ(Dutch)の各国の頭文字を並べたものである。その発動の日が昭和16年7月26日。

米国は日本の南部仏印侵攻をもって日本資産凍結を発表したのであった。

米国の対日攻勢をねらったオレンジ計画の発動の日でもある。歴史学者 秦郁彦 氏は、イギリスやオランダの領地が日本に攻撃されたとき必ずアメリカは参戦すると密約があったとされる。ワシントンとシンガポールでその会議は行われ、その報告書は「ABC-1」、「ADB-1」と呼ばれ、「レインボー5号」になったとされている。

すでにアメリカは昭和14年の同日、7月26日、ルーズベルト政権のコーデル・ハル国務長官が日本の堀内謙介駐米大使をワシントンの国務省に呼び、「日本の中国侵略に抗議する」として日米通商航海条約の廃棄を通告していた。なぜに年は違うが同日なのかはわからない。

米国は以後、必死に日本からの攻撃の事実を創り出そうと必死になり、厳しい条件を日本に突きつけてくる。

東郷外相の手記に「ハル公文はアメリカ当局の予想によれば、交渉が決裂して戦争になるとして万事を準備したのち、日本側の受諾せざることを予期したものであって、日本に全面降伏か戦争かを選択せしめんとしたものである」とあるごとく、完全なる宣戦布告文。日本を戦争に引っ張り出すのに必死なのである。正にやくざの因縁付けのようなもの。

当時のアメリカの横暴は許せるものではない。

石油を求めてオランダ領インドネシアを制圧した日本軍の戦いは実に見事。今村均閣下の仁政は大東亜解放の理念を忠実になした見事なもの。マレー半島とインドネシアのBDの降伏が成ったこの時点で終戦工作が動き出していたならここまでの悲惨は無かったろうに。しかし米国の野望貫徹の前には持たぬ国の国力ではいかんとも仕方なかった。残念至極です。

更に7月26日はポツダム宣言の出された日。

これに先立つ一九四五年七月十二日、日本は、ソ連に日本とアメリカとの和平を仲介を要請するため、和平案を近衛文麿に作成させた。「和平交渉の要綱」

日ソ不可侵条約を順守していた日本がソ連に仲介を頼むのは理に適う。しかし野望を持つ彼の国では相手が悪すぎた。

和平案に対するソ連の回答は、「、具体的内容がなく、回答できない」というもの。この直後、米英ソのポツダムでの会談があり、ポツダム宣言がされたのでした。

開戦前クリミア半島ヤルタで開かれた、通称、ヤルタ会談でアメリカ大統領ルーズベルト、イギリス首相チャーチル、ソ連首相スターリンとの間ですでにソ連の対日本への宣戦布告が話し合われており、スターリンは、全満州、朝鮮半島の北半分、樺太、千島列島のほかに北海道の北半分を占領する考えを持っていたのだ。

「海外にいる日本人を速やかに返す」「領土的野心は持たない」などの条件をポツダム宣言ではうたっている。しかし天皇存在の在り方も含め、疑問が多く、何度も質問を成している最中に原爆人体実験大量虐殺がなされた。ソ連は広島原爆を見て対日参戦を成す。略奪、暴行、殺人など悪の限り非道の限りを尽くした。領土をしこたま手に入れ、シベリア抑留までも成した。

かかる非道はたとえ敗戦したといえども許すことはできるものではない。


0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する