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2018年07月22日13:45

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源氏物語と紫式部への視点・2

近代のヨーロッパで長編小説が大量に書かれるようになって以降、そこで書かれた物語の背景は何で、モデルはいるのか、それはどんな人物かということに、読者の視線が注がれるようになってきた。
単なるゴシップ的詮索といってしまえばそれまでだが、作者とその背後の関係を正確に知ることは、作品そのものの価値や深さを追求していくうえでは必須の関心ともいえるだろうから、あながちそういう好奇心を、下世話なものとだけ決めつけることはできまい。
『源氏物語』は、11世紀の王朝平安時代の、天皇の落胤の光源氏という男性の一代記である。
だがその一代記の内容は、要するに恋の遍歴である。そして恋といってもプラトニックなものではなく、その恋とは性愛の遍歴である。
ここですぐ付け加えておくが、男女ともにそういう多数の相手との交渉は、貴族を中心とする当時の上流階級では、ごく、ふつうの習慣だった。その理解があるので、現在では英仏語をはじめ多くの外国語に翻訳されているこの事実上世界最古の長編小説が、勿論何よりもその心情と情景描写の卓越が最大の理由だが、文学愛好者の間で圧倒的な支持を集めているのだ。

その物語の作者の紫式部は、幼時に母親を喪い、間もなくすぐ年長の姉を喪い、その幼児期からもっとも親しかった親友とやはり若年時に死別し、という悲嘆の多い幼少女時代をおくったことが知られている。20代の終わりに結婚するが、じつにその3年後に、今度はその夫と死別してしまう。
もう昔の受験生時代に私が読んだこの『源氏』のいくつかの章の文章に誤解の余地なく明らかにうかがえる忘れがたい悲傷の色彩は、そうした彼女の前半生を反映したものだろう。
だが、『源氏物語』の全体は、それを打ち消すに足る華やかな遍歴に満ちている。
性愛をほぼ必ず含むそれらの多くの女性との遍歴を、その交渉での場面の双方の心情の微に入り細を穿った繊細極まる描写のリアリティを、女性であり、かつ前記の不幸な前半生しかおくっていない本人の紫式部は、いったいどのようにして、知ることが出来たのか。
それが、前回挙げた大野晋と丸谷才一の長時間対談の『光る源氏の物語』での、最初に挙げられる疑問であり、問題意識である。

もう一千年もまえの時代のそんなことなど、もう分かるはずがないではないかと、誰でも思うだろう。
ところが、さにあらず。
式部の実人生と彼女の著作の『紫式部日記』から、ほぼ間違いなく、その女人遍歴の際のさまざまな具体的情報を得た出所と、それから彼女の30歳を過ぎてからのそれまでの人生では得られなかった幸福感をもたらした体験の相手の男性は推測できると、この2人はいっているのだ。
ズバリ、それは、藤原道長。
時の摂政で、次の天皇となる皇子を生む女性の中宮彰子の父親。
今を時めく、とんでもないビッグネームである。
(続く)

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