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2018年07月20日11:09

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白川静の『初期万葉論』を読む

古代とは、霊魂の時代である。
それは、そこここに霊魂が遍在していたという意味ではない。
そうではなく、人びとの日々の立ち居振る舞いなどの行動、あるいは心中に思い浮かべることなどのすべてと、霊に働きかけるということが、べつのものではなかったということである。
なかんづく、歌を詠むという行為がそうであった。
白川はいう。
「万葉の古代人にとり、歌を詠むとは、魂振りの行為であった」
これは勿論、言霊という問題と切り離せない。
言霊とは何か。
それは、思いに言葉を与えることによって、対象に魂を与えること、思いの対象と我が身とを霊魂的に一体化させようとすることである。
その行為のメディア=媒介物としての言葉という意味である。
だから、その歌が叙景歌であるときはその眺め、心を揺さぶられている景色と我が身を一体化することによって、その場の光景全体を霊魂化する。
それはいい方を変えれば、その場の景色を、呪術の対象とすることとおなじである。
だから、中国ならば殷王朝、我が国ならば平城京の奈良時代やその後の平安時代の古代人にとって、それが相聞歌であるときは、慕う、想う相手との恋の成就を願うことになる。
古代人にとり、こうして、呪術、霊的行為、言霊とは、ほとんど同じものであった。
私はこれを読み、万葉集の受け取りかたに、強い示唆を与えられた気がした。
梅原猛のあの柿本人麻呂論への視点もだ。
こうして考えると、昨日書いた牡丹灯籠という江戸時代の怪談にも、べつの考え方が出てくるような気がする。
つまり、怪談とは、人びとの、一種の霊的行為なのではないか、ということだ。
それにより、人びとが何を願ったのかと考えるほうが、単純エンタテインメントのホラーとして受け取るよりも、有意味であるように思える。そのことへの私の仮説的回答をいえば、慕っている相手が幽霊だったということは、江戸期の人びとは、実在のこの世の者と背後のその霊とは一体でひとつの存在であり得るという場合もあると、思っていたのではないだろうか。肉体は、それだけで完結した完全な存在ではない。それだけではいわば器で、それに魂を与える霊というものが存在しているのではないか、と。現代になっても、心というもののつかみ難さは変わらない事実は、そのことの逆証になっているとはいえないだろうか。
私がようやく読み始めた『源氏物語』の受容や感じかたも、勿論、当時の我が王朝時代の人々がそれに拠って日々を生きていた霊の存在の思考というものを、欠落させてはなるまい。
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