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2018年07月10日09:09

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レバノン山脈の王族たちの館の廃墟群、バールべック

車は今、レバノン山脈の深い霧に包まれた地域を静かに走っている。
われわれの車以外、ほかには全く自動車の姿はない。
私はある日ホテルを出て、例のタクシードライバーを雇い、レバノン辺境にあるバールベック神殿遺跡に向かったのだ。

地中海岸のベイルート市内は中近東特有の蒸し暑さに満ちていたが、車が市街を出てベイルートと東側に隣接する大国シリアの首都ダマスカスを結ぶダマスカス街道に入り、次第にレバノン山脈の赤茶けた荒々しい山地を上り始めた頃から、気温は急激に下がっていった。

そうして山地を走行している内、われわれの車は、突如異様な景観の中に入りこんだ。
それは、まるで宮殿のような豪奢な建築ばかりが建ち並び、しかもそれら全てが見事に破壊されているという廃墟の風景なのである。

ドライバーに事情を訊いてみると、これらは中近東一帯の王族たちの夏の別荘のようだった。
レバノンは面積的には小さな国だが山脈を2つ持ち、そこでは冬は降雪がある。したがってどこに行っても暑い中近東全体の中で、このレバノン山地は稀な涼しい高原地帯らしいのである。そこに建ち並んでいたその王族たちの高級別荘が、75年から82年までイスラエルがPLO拠点のあるベイルートを軍事攻撃したレバノン戦争中に何らかの理由で破壊されたのが、今われわれの眼前に拡がる光景だったのだ。

霧に包まれた山の中の廃墟の宮殿の連なり。
その光景には、何か不気味さと凄みが漂っていた。

われわれの車は、2時間ほど走った後、バールベックに到着した。
バールベックは、レバノン山脈とアンチレバノン山脈に挟まれたベカー高原の奥地にある、規模はギリシャ・アテネのアクロポリスより大きいといわれる、ローマ時代の神殿の遺跡である。

何しろ10年も続き、まだ完全には終わっていない激しい内戦の直後である。以前は観光客で溢れていたであろうこの遺跡にも、人っ子一人いなかった。
私はドライバーに入り口で一時間ほど待っているように言い、一人で神殿遺跡の敷地の中に入っていった。

もっとも入るとはいっても、外部から隔てている壁や屋根がある訳ではなく、広大な敷地に神殿跡と思われるおびただしい量の残骸が堆積しているという遺跡である。
ただその敷地のある一角には、巨大な円柱が対になる形で七、八本、天に向かって聳え立っており、それらのあるものには象嵌が施された石の天板が付いていた。

私はその一角に歩み寄り、円柱の真下の石の回廊跡に、上を向いて寝転んだ。私の視線からとらえられるのは、空と、空に向かって聳立する神殿跡の孤絶した石柱だけだ。
私はその姿勢のまま、長いあいだ、その2つを見上げていた。
そうしている内に、自分の魂が空の中に吸い込まれてゆき、どこか空間の一点に止められたような感覚にとらえられた。

原色のブルーの絵の具を純粋に溶いて拡げたような夏の中近東の空。
2千年の時間をただ静止してきた遺跡。
全くの静寂。
それらの中のたった一人の自分。

今考えても、あれは特別な時間だったと思う。

現在また、ヒズボラなどの武装イスラム勢力の存在などの理由で、イスラエルからの理不尽な爆撃によって再び破壊され始めたレバノンだが、それ以前の最近の報道によれば、平和が戻ったレバノンではこのバールベックが外国からの観光客を呼び寄せる目玉になっているらしく、色とりどりのサーチライトに照らされて大勢の観光客が群がっている様子の写真が添えられていた。

内戦下、私がたった一人で訪れたような時のような沈黙の時間と空間は、もうあの場所に戻ってくることはないのかもしれない。
それとも、あの地はこれから再び戦火に蔽われ、バールベックもまた、訪れる者のない、石と空だけの無人の静謐な廃墟に戻るのだろうか。
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